※この話は「ケーキバース」という特殊設定を利用しています。
ナイフ・ケーキ・ノーマルという三種類の人間が存在する設定です。
カニバリズムを含む設定ですが、本作はカニバ要素はありません。
ナイフ→味覚がない。ケーキだけ美味しいと感じる。
ケーキ→美味しい人間。
ノーマル→大多数の普通の人間。
この世界には三種類の人間が存在する。
いわゆる「普通の人間」が大多数を占め、稀に「ナイフ」という人間が生まれる。ナイフは産まれたときこそ普通の人間だが、何年かすると予兆なく味覚を失う。治療法はなく、死ぬまでその状態が続く。
後天的な症状ゆえに、味わうことを知っているナイフは病んでしまうことが多い。そのため、国はナイフに適切なケアを行う義務がある。普通の人間がナイフ化した際は、速やかに自治体の監視下に置き、定期検査とメンタルケアを行う。
もう一種類は「ケーキ」。先天的に身体中のすべてがとろけるような美味しさである人間のこと。こちらは自覚症状がないため、自他共に気づかないまま育つ。一見すると普通の人間と変わらない。しかし、ケーキには一つだけ大きな特徴があった——。
ナイフが唯一味覚を感じることができるもの、それがケーキ。味覚に飢えているナイフは、ケーキを見つけると食欲を抑えられなくなる。食べたくて味わいたくて飲み込みたくて——同じ人間であることを忘れて襲いたくなる。
そんなナイフの欲求は昔から恐れられてきた。過去何度となくナイフは痛ましい事件を起こしてきた。ケーキを見つけることに長けたナイフは、カニバリズムに走ってしまう。
国によるナイフの手厚いケアが始まってから、そうした事件は減少してきた。しかし、まだナイフを恐れる者は多く、すべてがケーキを襲う危険な人物ではないのに、未だ偏見に晒されている。
ケーキには自覚症状がないため、もしかしたら自分がナイフに襲われてしまうのでは?と考えてしまうのはよくある話だ。
小学校からケーキとナイフについて正しい知識を教育することになってから二十年が経つ。その甲斐あって表面的にはナイフを悪く言う者はいなくなった——。
*****
バクラは仏頂面でクラスの委員長から渡されたノートを手に持ち、指定された教室に向かっていた。ノートには、昨日ホームルームで文化祭について討論した内容が書いてある。軽く目を通すと、クラスの好き勝手な要望がつらつらと書いてある。その一分にも満たないわずかな時間だけで頭が痛くなる内容だった。
文化祭実行委員とは、年間通して文化祭の準備に追われる損な役回りの委員会だ。委員決めで最後まで残る確率が高い。
なぜバクラがそんな貧乏くじを引いたのかというと、学校をサボった日に委員決めが行われ、不在ということで残りものの文化祭実行委員を押しつけられたのだ。
——ったく、高校最後の文化祭をやる気のねえ奴に任せてどうする。
会議をサボれば教師からの心証が下がる。何回か参加をして委員としての活動実績を作らなくては。それができれば、あとは文化祭がどうなろうと興味はない。
バクラは苦々しい顔をして廊下を進んだ。
会議が行われる教室の戸を開けると、すでに生徒は多く集まっていた。ガヤガヤと他愛のない会話を交わしている。
バクラの鼻を何とも表現しがたい甘い香りがくすぐる。濃厚な旨味が想像できる匂い。それが教室に充満している。梅干しやレモンを見たときのように自然と唾液が口の中に滲む。
バクラは顔をしかめた。誰かが菓子でも食べたのだろうか。飲食をしたなら窓を開けて換気をするべきだ。不愉快な思いをしながら空いた席に座る。
*****
バクラは「ナイフ」だった。六歳の頃にすべての味覚を失った。それまで美味いと感じていたものが、急に何も感じられなくなるのは悲劇だ。それも食を楽しむことが喜びだと感じられる幼いときに。
普通のナイフなら、症状がでればすぐに病院へ検査しに行く。診断書を書いてもらい、市役所へ提出して国からのサポートを受ける。
しかし、バクラはそれをしなかった。ナイフが差別対象であることを知っていたし、国から監視されるなど屈辱的だと思った。
その後にバクラの取った行動は、幼い子どもにしては常軌を逸していた。食事をするときに周りを観察し、味わう普通の人間の反応を真似た。周りが美味いと言えば、美味しそうにすればいい。不味いと言えば、不味そうにすればいい。そうして巧妙にナイフということを隠し通した。
数年経つと、普通の人間に擬態することにも慣れてきて、神経質に周りの様子を気にする必要はなくなった。架空の嗜好さえ作るようになった。薄味より濃い味を好む。特に辛味が好物。といった設定を基に食事中は振る舞った。
薄味は人の反応が分かりづらい。味覚が育ってない者なら、「味がしない」とさえ言う。とてもバクラの参考にならない。
対して辛味は、味覚がなくても感じることができる特徴がある。トウガラシのカプサイシンは皮膚刺激の作用があり、味が分からなくても、辛いのだと認知できた。だから、辛いものが好きだという設定にして周知した。周りはバクラの演技を疑わなかったし、ナイフは数が非常に少ない。気づかれることはなかった。
食事の時間は苦痛だった。
味がしない物体をひたすら噛み砕いて飲み込む。加えて味覚のある演技。自然と少食になった。生きるために必要最低限の栄養を取るだけ。身体は痩せていく。
普段から大袈裟な反応をしていると、食事のときに面倒になる。演技に合わせて普段の表情が乏しくなった。
すべてバクラが快適に暮らすために行ってきた生存方法だ。他のナイフと同じように予備殺人者と認識されたくはない。そのためには、演技をし続けるくらい屁でもない。
*****
バクラは強烈な匂いに眉間に皺を寄せ、配られた書類に目を通す。味覚はなくても嗅覚は普通だから、芳醇な香りは堪えた。周りが平然としているのはなぜだろうか。
書類には今年の企画やテーマなどが載っていた。これは生徒会で先に決まったこと。今日はクラスの要望を他のクラスと照らし合わせ、各クラスの出し物を決め、計画を立てていくらしい。
高校三年は優先的に出し物を決められる。人気なのは屋台・模擬店だ。バクラのクラスもカレーライスを希望していた。
「やっぱり食べ物系だよねー。うちもカフェやりたいって言ってるし」
はっきりとした顔立ちの女子生徒が書類を指で弾きながらぼやく。
「めんどくさそー」
髪を掻き上げると、香水の香りがふわりと漂う。
「ま、三年じゃしょうがないよ。諦めて手軽にできる方法を考えようよ。食品店の文化祭用プランって結構あるらしいし」
真面目そうな眼鏡の男子生徒が不満たらたらの生徒たちをなだめた。
三年生のクラスは、やはりどこも飲食物を希望していた。希望の種類が被らなかったことで話し合う必要がなかったのは幸運だった。
会議は予定通りに終了し、決定事項をクラスに持ち帰ることになった。しばらくはクラスと委員会の間を何度も往復することになる。
勿論、バクラにはその気はない。まだ鼻に届く甘ったるい香りが気になる。周りに気づかれないように何気ない仕草で鼻から口元を手で覆った。
「獏良くんってさあ、何かケア用品使ってる?めちゃくちゃ肌きれー」
派手な女子生徒が隣の席に座っている男子生徒に声をかけた。長髪に透き通った肌目立つ。
「え……。ううん。別に何もつけてないよ」
獏良と呼ばれた少年ははにかんだ。女子生徒も綺麗な顔立ちをしているが、獏良はそれ以上だった。人形のように少しも狂いなく整っている。それでいて大きな眼が幼さを演出しているのか、愛嬌が感じられる。
バクラは獏良とは話したことはないが、存在は知っている。恐らく、この教室にいるほとんどの人間もそうだろう。
獏良が女子生徒の群れに囲まれていることは日常茶飯事で、童実野高校では見慣れた光景だからだ。ファンクラブすらあるらしい。
普通なら同性に嫉妬をされそうだが、獏良本人が困ったような顔をしているからか、他の男子生徒は気にしていないようだった。別世界の人間として珍獣を見るような目の者までいる。興奮気味の女子生徒たちに群がられて困っている姿は、小動物のようで少し哀れでもある。
「えー!素でそれなの?ズルくない?」
派手な女子生徒は興味深そうに獏良を見ている。好意を向ける一部の女子とは異なり、特別に意識している様子ではなさそうだ。
「女子会じゃないんだから。解散解散」
真面目そうな男子がそう言うまで、会議後の雑談は続いた。
*
それから、バクラが文化祭の会議に行く度に同じ甘い匂いが部屋に漂っていた。
始めは必要最低限に会議に参加をすればいいと思っていたが、どういうわけか香りを忘れられずに吸い寄せられるように会議が行われる教室に向かってしまう。
文化祭の出店配置やステージの内容が次々と決まり、イベントという形になっていく。
バクラが話し合いに参加しながら匂いの出所を探しても見つからず、苛立ちが募っていく。半ば躍起になっていた。見つかったところで味覚を失った身では、味わうことはできないのに——。
そして、そのうちに気がついた。
『この世のものとは思えないほどの芳醇な香りは本当に存在するのか?』
引戸を開けただけでも、感じる強い匂いなのに、教室の誰も気にしている様子がない。こんな簡単なことに気がつかないなんて、香りを意識するあまりに頭が麻痺していたのかもしれない。
香りの中にいるだけで、失われたはずの食欲が蘇るようだった。大きく口を開けて齧りつきたい。ゆっくり咀嚼して思う存分に味わう。飲み込むときに喉を通るときの満足感は想像もできないほどだろう。
バクラは平常心を装いながらも、内心は飢えた獣のようになっていた。
今ならナイフを生涯に渡り国の監視下に置くべきと主張する団体がいるのも当然だとさえ思える。
*
「こう見ると近づいてきたって感じだねー」
刷り上がった文化祭の案内冊子を生徒たちが一部ずつ取って回していく。冊子の分厚さが、これまでの努力を表しているようで、生徒たちの顔は明るい。
各クラスでも店の準備が始まり、教室も慌ただしくなってきた。積極的に協力する者、塾や習い事と理由をつけて顔を見せない者、学生たちの反応は様々だ。
「最初はどうなることかと思ったけど、順調なお陰で時間に余裕があるね」
獏良は受け取った冊子をぺらりとめくり、
「イタッ」
小さな声を上げた。
「どうしたの?」
「紙で手を切っちゃって」
「あー痛いよね。刷り立てだから気をつけよう」
人差し指にできた一筋の赤い線。そこからじわりと液体がわずかに染み出る。
「ティッシュティッシュ……」
獏良は人差し指を立てたままズボンのポケットを探る。ケースから引っ張り出した一枚のティッシュで指を押さえた。ティッシュに血液が少しだけ滲む。
その様子をバクラは肉食動物のような鋭い目つきで見ていた。
*
次回の会議は来週。クラスの出し物の内容をまとめて会議で発表をする。その一方でクラス内の役割分担を決めなくてはならない。半分は出店の準備、もう半分は当日の店番。
獏良の店はお好み焼き屋だ。学校の規制により、お好み焼きは冷凍のものを仕入れたもの。本番ではホットプレートで温めたものにソースと鰹節と青のりを乗せる作業のみ。
それでもクラスメイトたちは盛り上がっていて、みんなで衣装を合わせようなどと話し合っている。
獏良は大勢で騒ぐのはあまり得意ではないが、楽しそうにしているクラスメイトたちを見ているのは好きだ。みんなのために頑張ろうと思える。それならば、縁の下の力持ちになろうじゃないか、という気になる。
——予算オーバーにならないように、しっかり考えなきゃ……。
考え事をしながら廊下を歩いていると、突然強い力で腕を引っ張られた。抵抗する暇もなく、空き教室に引きずり込まれる。
「わっ!」
たたらを踏む。背後でピシャリと戸が閉まる音がした。
転倒するのを何とか耐え、犯人の姿を見ようとする。戸の前に立ちはだかっているのは、文化祭実行委員の仲間だった。いつもやる気のない、目つきの悪い少年。
「きみは……」
獏良は話しかけようとして口をつぐんだ。相手は血走った目をして呼吸を乱し、とても普通の状態ではなかったからだ。
「……お前だ」
素早く相手の腕が伸びる。簡単に獏良の手首が掴まれた。指が皮膚に食い込むような強さで逃げることもできない。
「ひっ……!」
手には先ほどできたばかりの小さな赤い傷がある。そこに熱い息がかかる。
「ああ……やっぱり。見つけたぞ……」
隣のクラスの委員会仲間は傷をうっとりと見つめている。「なに?」と獏良が問う前に、彼が取った行動は、常識では考えられないもの。
口からぬらりと這い出した紅色の軟体動物が獏良の指に絡んだ。熱を持ったそれは傷をなぞる。水気を帯びた何とも表現し難い感触に、
「ぅあ」
獏良の背筋が震える。それも当然のこと。指は他の部位と比べて感覚が鋭い。だから、紙で切っただけでも痛みを感じるのだ。
指先を唇で強く吸われて無反応ではいられない。初めての感覚に獏良は身をよじる。逃すまいと舌が躍起になって指を撫でる。
「くっ……」
獏良の全身が総毛立つ。初めての感覚が恐ろしい。それと同時に内側に熱を感じた。
「何年ぶりだ」
ちゅぽん、と相手の口から指が抜ける。
「懐かしいなあ。いや、それ以上だ」
喉奥から吐かれる熱く深い息。
「味覚が脳を刺激する感覚……たまんねえ」
それは獲物を前にした捕食者の顔だった。口端を高く持ち上げ、涎を垂らさんばかり。
本能的な恐怖が獏良を襲った。身体が強ばり、動かなくなる。彼が捕食者としたら、自分は被食者なのだと、思い知らされた。
彼は舌で獏良の傷口を舐めながら、うっとりと言った。
「おいおい、ビビんなって。こんなに美味ぇもん、すぐに失くしたりしねえよ。そこら辺のバカ共と違ってな」
指先に唇が押しつけられる。その意味は感謝と称賛。怯えた獏良には伝わることはなかった。追い詰められた被食者は、捕食者を目の前にしてただ震えることしかできない。
*****
「いよいよ大詰めだねー!」
派手な外見の女子生徒が両腕を上げて伸びをしながら言った。学校のあちらこちらでは既に装飾が始まっている。校門にはアーチの骨組みが完成しつつある。
「時間の余裕はないから、気を抜いて間に合わなかった——なんてことはないように」
「はーい」
計画書はできあがっており、あとは当日までに準備を間に合わせる段階。委員たちは各クラスの進捗状況を注視する。ゴールが見えてきた今はのんびりムードだ。
会議を重ねたことで委員たちの仲は深まり、集まると和気あいあいとした雰囲気になる。
しかし、その中に獏良とバクラの姿はなかった。
報告会が終わると同時に二人で退席。最近の定例会ではずっと続いており、もはや気にする者もいない。
*
「……ぁ……や、もう……もう、やだ……」
空き教室で微かな水音がする。その音に紛れて聞こえる少年の湿り声には、どことなく淫靡な意味合いが含まれているよう。
「やめて……」
形だけの抵抗をする獏良には構わず、バクラは夢中になって鎖骨周りに舌を這わせている。肌に浮かぶ汗から極上の味わいがする。シャツは乱暴に開かれ、白い胸元が見えている。それがまたバクラの食欲を掻き立てる。
「やだ……や、むっ、ん、ん……」
唾、汗、涙、血……獏良のすべての体液が、バクラにとって唯一の味覚を感じる食料。砂を噛むような無味乾燥とした食事とは天と地ほどの差だ。一度味覚を失ったせいで麻薬に似た依存症すらある。
ああ、これは仕方がない。こんなにも魅惑的な食料では、夢中になって食べ尽くす者がいてもおかしくない——。
ただ、一度きりで終わらせるなんて愚の骨頂だ。本当に味わうなら、大切に大切に育てて、一生手元に置くべきなのだ。
バクラは冷静と狂気の間で揺れ動きながら、口の中を甘露で満たす。
被食者であるはずの獏良は、天井を見上げながら、なぜだか口元が笑みの形になっていた。
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これも一つの共生