ばかうけ

童実野町から電車で三十分。商業地域と港町という面を併せ持つ童実野町と比べると、乗降客数が少なく静かな印象の駅。古い家が並ぶ閑静な住宅街。そこに獏良は降り立った。
改札口は一つ。乗り換えはなし。初めて利用する獏良でも迷うことはない。改札口を出た後は、左右のどちらに進むか足を止めただけだった。
携帯を取り出して行き先の確認をすると、右が正解だった。駅を出るとスーパーやコンビニなど、ぽつりぽつりと見かけるものの、全体的に商業施設の規模は小さく、人通りも少ない。道路は一方通行が多く、地元民でなければ道に迷ってしまいそうだ。
「ええっと……駅がここだから……」
獏良は携帯の地図アプリで回転や拡縮を繰り返す。目的地の住所は分かっている。けれど、土地勘のない者にとっては、まるで迷路のような街だ。自信なさげに地図と周囲を交互に見ながら先へと進む。駅から離れると住宅しか見えなくなる。住宅といっても集合住宅ではなく一軒家だ。それぞれ敷地面積は広く、高級車が何台も並ぶガレージがある。いかにも富裕層が住んでいそうな家ばかり。獏良は電柱に表示されている住所を注意深く確認しながら目的地に向かう。

*****

父から連絡があったのは三日前だった。
骨董商兼考古学者の父は、童実野町の一部で名が知られている。美術館のオーナーでもあり、美術界隈では有名人だ。本人は名品を求めて頻繁に海外へ飛んでいるから、童実野町にはいないことの方が多い。
そんな父の元へ一通のメールが届いた。事務所宛に送られてきたもの。以前、買い取ってもらったものを返して欲しいという内容だ。差出人は企業ではなく個人から。「返して欲しい」といっても、「受け取った金額はすべて返却する」というのだから、決して非常識な内容ではない。
しかし、獏良の父はこのメールに頭を抱えてしまった。この手のメールはよくある。地元で有名な骨董商ゆえにインターネット経由で個人からの問い合わせは尽きない。検索すれば、すぐに名前が出てしまうからだ。
「遺品の処理に困っている」「物置きに高そうなツボがある」「昔、趣味で集めていたものを手放したい」
残念ながら、昔から父は個人との取引を行っていない。トラブルを避けるためだ。取引を行うのは、資格を持っている業者のみ。
だから、個人と売買を交わした履歴がない。
十年前の話だというから、誤解の可能性が高い。しかも、取引をしたのは故人だという。メールを送ってきたのは、骨董品の持ち主の義理の娘を名乗る人物。ますます話がややこしくなった。普段ならば、「個人との取引は行っておりません」という定型文を事務員から送らせるところ。
しかし、先方が獏良の父の名刺を持っているという文章で話が一変した。
『取引はしていないが、何らかのやり取りをしたことはある』——たった一枚の紙片の存在が、メールを無下に扱えなくさせた。
獏良の父が買取業者を紹介したという答えが可能性として一番あり得る。けれども、まったく記録が残っていない。
困った父は息子をメールの差出人の元へ向かわせることにした。例に漏れず海外出張中だったからだ。

*****

「まったく……困るよ」
携帯を片手に獏良は口を尖らせる。
「貴重な骨董品見せるからって言えば言うこと聞くと思ってるんだから……」
周囲の民家をきょろきょろと見渡し、携帯に視線を戻す。
「確かに……その通りだけどさ」
ぶつぶつと呟きながら、塀に囲まれた二階建ての戸建ての前で立ち止まる。門扉はフェンスになっており、数メートル先の玄関ポーチが見えた。玄関チャイムはそちらにある。
獏良は門扉の横に取りつけられた表札と父から転送されたメールの差出人が一致してることを確認する。一回深く息を吸うと、ドアノブに手をかけた。門扉を開けて敷地内に入る。緊張からか空気が変わった気がした。冷気すら感じる。チャリ、と獏良の服の下で金属の擦れる音がした。
チャイムを鳴らすと、少し間を置いて女性の声で返事があった。
『はい……』
「昨日連絡いたしました獏良です」
『——少々お待ち下さい』
玄関の戸を開けたのは、青白い顔をした中年女性だった。彼女は破棄のない声で「わざわざありがとうございます」と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。押しかけてしまって……」
女性がお辞儀をしたことで玄関の奥の様子が垣間見えた。部屋着姿の老人がこちらに視線を向けている。タイミングが悪かったのかもしれない。獏良は慌てて目を伏せた。
「どうぞ中にお入り下さい」
疲れきった様子の女性は、さらにドアを大きく開けて獏良を家へ招いた。そのときには老人の姿はもうなく、薄暗い廊下がそこにあるだけだった。

廊下を歩きながら女性は軽く説明を始めた。
「その鏡台は義父のものでして……。骨董品に凝っていたときにいくつか買ったものの内の一つなのだそうです。義父が亡くなった際に長男である夫が売却しました。義母は早くに亡くなっていて、鏡台のことを知っているのは夫だけでしたが……その夫も五年前に急病で亡くなりました」
廊下を歩く度にギシギシという音を立てる。家の中は綺麗に整えられている。廊下の傷や黒ずみが年季を感じさせた。三世帯でも余裕のある広さの家だが、人の気配はしない。
「去年、一人息子も妻子を残して事故で亡くなりました。これはただ事ではないと、昔から付き合いのあるお寺さんに相談したところ、義父は曰くつきの骨董品を持っていたことを教えてもらいました。それが……くだんの鏡台なのです」
女性は襖を静かに横へ滑らせ、獏良を和室に通した。座卓に座布団。それ以外は、低い棚、置き時計、カレンダー——と物は少ない。
「お座りになってお待ち下さい。お茶を用意しますので」
「あ、いえ!お構いなく!」
獏良が後ろを振り返ったときには、彼女は深くお辞儀をしてから戸を閉めるところだった。廊下の音をゆっくり鳴らして去っていく。
人目がなくなったことで息を吐いて荷物を畳に置く。手提げバッグの中には父の事務所から送られてきた書類がある。これでどうにか納得してもらえないだろうか。どうやら込み入った事情があるようだ。しかし、獏良側ができることはほとんどない。とにかく鏡台の行方と父は無関係であると伝わればいい。
「息子にこんなことさせるなんて……」
愚痴を吐きながら敷かれた座布団に腰を下ろす。社会経験のない息子に頼み事など、父は思い切ったことをする。珍しい骨董品があると聞けば、すぐに海外へ飛び出す父らしいといえば父らしい。もしかしたら、後を継がせようと考えているのだろうか。そんな気はないのに。獏良はつらつらと考えながら、バッグから座卓の上に書類を並べる。
赤の他人の家は居心地が悪い。内装、匂い、雰囲気……すべてに違和感がある。自宅に和室がない分、さらに落ち着かない。獏良は正座をした足をもぞもぞと動かした。意味もなく書類を手に取り、目を通し始める始末。
だから、気がつかなかった。
下に落としていた目線を何の気もなしに上げると襖が開いていて、玄関で見かけた老人が廊下に立ってこちらを見つめている。音は聞こえなかった。たまたま視界に入ったから気づいただけ。
獏良は驚いて仰け反る。叫び声はすんでのところで耐えた。叫ぶのは家人に対し、あまりにも失礼だ。
老人は言葉を発さずに、廊下の先へと指を差した。先ほど通ってきた方向——終着点は玄関だ。
「あの……?」
意味が分からずに戸惑う獏良に対し、老人は腕を横にまっすぐ上げたままの姿勢。ひょっとしたら、指し示す方角へ行けという意味なのだろうか。それとも、認知症を患っているのだろうか。獏良は判断に困り、硬直した。女性が早く戻ってくればいいのに、とさえ思った。
ブブブブッ——。
突然の振動音。バッグにしまってある携帯の通知だ。反射的にバッグを開け、携帯を取り出す。画面を見れば、芸能ニュースの知らせだった。獏良は内容を見ずに携帯をサイレントモードに変更する。
再び顔を上げると、老人の姿はなかった。足音も気配もしなかったはず。廊下は経年劣化のためか、音が鳴るはずなのに。狐に摘まれたような気分だった。
間を置いて今度は足音が近づいてくる。襖が静かに開き、盆を持った女性が姿を現した。盆には湯呑みが二つ乗っている。
「お待たせしました」
「いえ……」
獏良は老人のことを訊ねたかったが、繊細な家庭の事情に踏み込んでしまう気がして言葉にできなかった。
女性は丁寧な仕草で湯呑みを座卓に並べてから盆を畳に置き、自身も獏良の正面に座る。正面から見た女性は目の下に濃い隈ができていた。さらに頬がこけ、目が淀んでいる。明らかに体調が悪いようだ。
「連絡した通り、あの鏡を買い戻したいのです。あれを失ってから我が家は不幸続きで……」
獏良は持ってきた書類を差し出しつつ、「その件について、事務所から書類を持ってきました。責任者の父は海外出張中なので、ボ……私が代理人になります。書類の通り、父はそちらの鏡は買い取っておらず、恐らくこちらに記載されている——」
獏良が拙いながらも父に指示された通りの説明を続けていると、女性は遮る形で再び口を開いた。
「あれがないと困るのです。困るのです。義父が亡くなりました。夫も亡くなりました。息子も亡くなりました。次はきっと孫です。返して下さい。あれは大切なものなのです」
遠くを見つめているような虚ろな目で単調に言葉を続ける女性。獏良を見ているのか分からないほど。その光景があまりに不気味で獏良の全身に寒気が走った。
「あ、あの……」
女性は初めて獏良の存在に気がついたように呆けたように見つめ、「あら……?」と大きく目を開き、
「なぜあなたに『効かない』のかしら?」
次の瞬間、畳を手で強く突き、獏良の身体が女性と距離を取るように後方へ飛んだ。座布団もその勢いで舞う。その下から長方形の紙札が表れた。
女性を睨みつける獏良の顔は一変して攻撃的になり、別人のようだった。鋭い目つきで紙札を一瞥し、忌々しげに大きく鼻を鳴らす。
「なんだァ?くっせえニオイがぷんぷんしやがる」
紙札には墨でびっしりと何らかの文字が書かれている。
女性は目を吊り上げ、目の前にいる訪問者を睨む。
「おのれ、二人だったかっ」
座卓を飛び越えんばかりに立ち上がる女性。
その前に「獏良」は容赦なく足で座卓を蹴飛ばす。座卓は茶器をぶちまけ、女性側に横倒しになる。遅れて茶器が割れる音。
女性は叫び声を上げ、身体のバランスを崩してその場に倒れる。
「オレ様に無断で宿主に手ェ出してんじゃねえよ」
獏良——の内に潜むもう一人の人格は牙を剥き出しにし、女性を見下ろして吐き捨てた。

『やりすぎだよ……』
身体の操縦権を奪われた獏良は、バクラだけに聞こえる声で呆れたように言った。
「うるせえ。ぼやぼやしやがって。だからオレは気に入らねえと言ったんだ」
和室は座卓が引っくり返されてめちゃくちゃの状態だった。畳に茶がぶちまけられ、茶器の破片が散らばっている。
バクラは座布団の下に敷かれていた紙札を摘まみ上げ、半分に破ってその場に放った。女性の言葉からすると、座布団に座った人間に害をなすものだったようだが、生憎座った人間は二人だったために効力を発揮できなかったようだ。
「呪いだかなんだか知らねえが、歴史の浅い玩具じゃオレに傷一つつけられねえぞ」
『お前にかかっちゃ何でも可哀想に見えるよ』
二人が話していると、女性は呻き声を上げて意識を取り戻した。割れた和室の状態に驚きはしたものの、先ほどまでの陰気な表情は消えていた。少し疲れ気味ではあるが、心身ともに真っ当に見える。
役目が終わったと判断したのか、バクラは無言で心の内側に戻った。すると、自然と獏良が表に押し出される。瞬間的に敵意剥き出しのきつい顔つきから穏和な表情になる。
混乱している女性に対し、獏良は骨董品の件を説明した。すると、なんと女性は獏良の父に問い合わせた覚えはないという。正確には、朧気な記憶しか残っておらず、まるで夢の中にずっといたような状態だったという。女性からのメールが獏良側に残っていることから、説明を信じてもらえた。
女性の家では確かに不幸が続いているのだという。付き合いのある寺に相談に行ったことも事実らしい。古い鏡台を取り戻さなくては——というところから、彼女の記憶は曖昧になっていた。獏良に仕掛けられていた呪符のようなものの記憶もないという。
「もう家には私と嫁、幼い孫しかおらず、ほとほと参っていました……。もし、孫にまで影響があったらと思うと……」
女性は声を震わせながらハンカチで目元を押さえる。
「あの……もし問題がなければ、鏡台のあった場所を見せてもらえませんか?」

女性の義父が使っていた手狭な和室に、鏡台はあったという。その和室に獏良は通される。家具や生活用品はなく、人の気配がしない寂しい部屋。しかし、掃除は行き届いていて、チリ一つない。
部屋の一ヶ所に畳の色が違う場所があった。長方形のそこだけ色が鮮やかだ。
「ここに鏡台があったんです。亡くなった夫が持っていても仕方がないと売ってしまったんですが……」
バクラは半透明の姿で現れると、鏡台のあった場所を凝視する。畳もそうだが、壁にもうっすらと跡が残っている。どうやら、高さは百センチを超える。横幅は八十センチ程度。座って姿を映すのにちょうどいいサイズ。
『鏡なんぞろくでもねえ。古いもんなら尚更だ。この世の者じゃねえのも映すし、人に悪戯だってする。扱いを間違えれば持ち主に返ってくるぞ』
バクラは腰を屈めて鏡台があったであろう場所をしげしげと見つめる。そして、顎を擦りながら言葉を続けた。
「鏡そのものを始末するよりも——」
心配げに見つめる女性に、獏良は優しげな顔で振り返り、
「思い当たる業者の一覧を父は書類にまとめましたが、売却先を探すのは大変ですよね。鏡台はおうちに帰ってきたがってるみたいです。だから、あの手この手を使い、みなさんに訴えかける。だから、もう居場所はここにはないと知らせた方がいいと思います」
獏良は鏡台があったと思わしき場所を手でなぞる。
「ここを塞ぐように……タンスかな……クローゼットでもいい。跡が見えないように置く。部屋は締め切らずに……お孫さんの遊び場にしてしまうのがいいかもしれません。子どもの生命力は強いですから、いい邪気祓いになりますよ」
穏やかに微笑む獏良の顔を見つめ、女性は安心したように何度か頷くと、一筋の涙を流した。

*****

「どうもありがとうございました」
玄関で女性は深々と頭を下げた。獏良は大きく首を横に振る。
「大したことはしてないですから……。それどころか、部屋を荒らしてしまってごめんなさい」
女性は憑き物が落ちたように「孫の方がヤンチャですよ」と明るく笑い、座卓が引っくり返った部屋を問題にはしなかった。むしろ、家にあった上等な菓子を箱ごと獏良に持たせてくれた。
家にいた老人のことは、今でもわからないままだ。住居人は女性と嫁、孫の三人だけなのは確かだ。成人男性は全員亡くなってしまっている。年齢的にもしかしたら——。
父の事務所から送られてきた書類の束は、そのまま持ち帰ることになった。帰りの電車の中で簡単に報告をメールでするつもりでいる。また同じようなことがあった場合、代理人を頼まれそうで恐ろしい。
頭を下げる女性に見送られながら、獏良は静かな歩道を歩く。時間は夕暮れに差しかかり、西の空は茜色に染まり始めている。遠くでカラスが鳴いた。
「はあ……。今日は早く寝よう」
疲れで猫背気味になった獏良から伸びる影は一つ。
『お前は厄介ごとを引き寄せるんだから自覚しろよ』
「お前にだけは言われたくない」
聞こえる声は二つ。太陽が傾く中、この世ならざる者を宿す少年は、人知れず街の中へと消えていった。

ーーーーーーーーーーーーーーー

遺品を処分するときは気をつけて。

↓おまけで本文のセリフです。↓

「まったく……困るよ」
『また面倒事に巻き込まれやがって』
「新しく仕入れた骨董品見せるからって言えば言うこと聞くと思ってるんだから……」
『お前が父親の話に乗ったんだろうが』
「確かに……その通りだけどさ」

『へえ……。なかなか金回りの良さそうな家じゃないか。金は全額返すって言うだけあるな』
「息子にこんなことさせるなんて……」
『さっさと用件済ませて帰ろうぜ』

前のページへ戻る