肌寒い季節になってきた、ある日の昼下がり。獏良は弾んだ足取りで階段を上る。トントントン——。下校途中で制服姿のまま。手には通学鞄と布袋、レジ袋。それらは動くたびに大きく揺れ、中から粗雑な音がする。
階段を上がり終えると広場になる。広場の奥には古代ローマ神殿風の趣のある建物がある。童実野町一の敷地面積を誇る美術館だ。平日だから人は少ない。
獏良は建物正面にある入口には向かわず、建物の脇に回り、従業員通用口に向かう。展示品の搬入口に隣接している目立たない場所。正面入口と比べると明らかに光が当たっていない。
入口には厳つい警備員が一人。獏良は鞄の中からネックストラップがついたプラスチックケースを取り出す。ケースの中には「関係者」と書かれたカードが入っている。
警備員は獏良に気がつくと、ろくにカードも見ずに警戒を解く。顔にはにこやかな笑み。
「こんにちは」
「今日も精が出るねえ」
そう言いながらロックを解除し、ドアを開ける。
オーナーの息子である獏良のことを知らない美術館の従業員はいない。入館も顔パスだ。しかし、獏良は律儀に関係者証を提示する。オーナーの息子とはいえ、特別扱いされるのは尻の座りが悪い。
「ありがとうございます」
獏良は通路を脇目も振らずに歩く。時折、従業員とすれ違い、会釈をする。
展示場と違い、バックヤードは飾り気がない。客が目にすることのない場所だから当然ではあるが、あまりに面白みに欠けている。
白い壁に並んだ長方形の白いドア。目指すはその中の一つ。獏良は迷わずドアノブを捻った。
部屋の中央には作りかけの大きなジオラマ。それを囲むようにして展示期間外の展示品が収納されている——神々の像、ヒエログリフが刻まれた石板、棺すらある。
獏良は部屋に入ると荷物を下ろした。上着を脱いで白いシャツ姿になり、持参した藍色のエプロンを身につける。袖をまくり、落ちてこないようにゴムで固定する。
用意が整った獏良は、テーブルの上に乗ったジオラマを見下ろし、全体像を確認する。一面砂漠の景色。周囲には岩山。その中には家が疎らに立っている。
祭壇風の展示品の飾りを台座として利用しているから迫力がある。まだ作りかけだというのに、個人製作では不可能な雰囲気になっていた。獏良から満足げな溜息が出る。
進捗状況の確認が終わり、獏良は台座から下りて作業を始めることにした。専門店で買ったアクリル塗料やボンドをビニール袋から取り出す。布袋には自宅で製作したジオラマパーツが入っている。獏良の顔はやる気に満ちて輝いていた。
勝手に工作をしているわけではない。オーナーである父にも、従業員にも確認を取った上で部屋を使わせてもらっている。もっとも、父はほとんどこの美術館にはおらず、もしかしたら現在は海外にいるかもしれない。父に運営と管理を任された従業員は、製作の意図を知らず、オーナーが許可したということで深く疑問を持たない。
獏良は誰にも知られずに、儀式用のジオラマを作っていた——。
*****
その話をされたのは、一ヶ月以上前のことだった。
獏良が所有する千年リングに宿る存在が初めて頼み事をしてきたのだ。
彼が話しかけてくることは珍しく、よほど大事なことなのだと獏良は判断した。
そのとき既に彼には二度助けられており——ペガサス島の迷宮と御伽の件だ——報いなければならないと考えていたため、まずは話を聞くことにした。
「オレは千年リングに封じられた古代エジプトの盗賊。三千年もの間、現世をさ迷ってきた。もう疲れたんだ。そろそろ成仏がしてえ……」
目を伏せてそう語る彼の表情が悲しげに見え、獏良は考えるより先に頷いた。
「うん!僕にできることなら……何でもやるよ!」
長所でいえば純粋で人を疑わない、短所でいえば警戒心がなく単純な、部分が発揮された瞬間だった。
「どうすればいい?」
獏良の問いに彼は少し考える仕草をして、
「オレが生きた三千年前のエジプトを再現できるか?」
と話し始めた。
簡潔にまとめると、冥界に行くためには儀式をする必要があるらしい。そのために彼が生きた世界を再現しなければならない、とのことだった。
この話については、獏良はすんなりと受け入れることができた。古代エジプトは儀式の宝庫だ。そもそも古代人は現在よりもずっと神に寄り添って生きていた。古代エジプトは特に顕著で、ピラミッドやミイラを見れば明らかだ。だから、彼が儀式にこだわるのは道理に適う、と考えたのだ。
運のいいことに、獏良の趣味は模型作りだ。今まで何度もジオラマ製作もしてきた。物作りの基本は身についている。古代エジプトの町なんて大きなものはさすがに作ったことはないが、作業としては変わらないはずだ。
そして、獏良の父は童実野美術館のオーナー。製作するために必要な道具や場所を提供してくれるかもしれない。
この条件が脳内で繋がったとき、武者震いとでもいうような身体が震える感覚があった。自分の使命が「ここ」にあったのだ、という認識。「古代エジプトの哀れな魂を冥界に還す」——これが自分の成さなければならないことだと悟った。
*
それからの獏良は早かった。父と美術館に連絡を取り、ジオラマ作りの協力を仰いだ。
父とは子どもの頃は仲がよく、行動を共にしていた。思春期に入ってからは自然と離れるようになった。特に揉めたり、反抗期があったというわけではない。その後に友人とのトラブルがあり、物理的な距離ができてからはほとんど没交渉だった。
獏良がメールを入れると、すぐに父から快諾のメールが返ってきた。待ってましたと言わんばかりの早さ。父は息子との交流がしたかったのかもしれない。そのときは二重の意味で安心した。父に連絡をするいい機会になったのだ。
「従業員に連絡をしておいた」とまた父からメールが届いた。使い余している部屋はいくつかあるから、すぐに使えるらしい。
オーナーの不在を預かる従業員たちは少し戸惑っているようだったが、獏良が人畜無害な人間だと分かると不満を漏らすことはなかった。それどころか、頻繁に家と美術館を往復して熱心に製作し続ける姿を見て、興味を持ったらしい。ジオラマ製作を見学し、その手際に感嘆したようで、少し会話をするようになった。
展示について意見を言ったり、余った装飾品を譲り渡すと、従業員たちは喜んだ。そうすると、館内の道具が自由に使えるようになり、廃棄予定の資材が手に入るようになった。
ここまで積極的に行動できたのは、使命を意識してアドレナリンが分泌されているような状態だったに違いなかった。
*
千年リングの彼——バクラとはよく話すようになった。ジオラマ作りには、まず設計図を作らなくてはならない。獏良が勝手に内容を決めるわけにはいかないから、バクラに一つ一つ確認をした。大きな図書館に行って、古代エジプトの本を借りに行ったりもした。
本を指差してバクラに意見を聞きながら構想をまとめていく。それを全体像として大きな紙に書き出し、さらに修正点を指摘してもらう。歴史書に載っていないことを聞くのは楽しかった。
バクラには何ヵ所が譲れないこだわりがあるらしい。王家の谷や王宮、廃村、ナイル川。それについても書き記す。反対に町や町民については大雑把なイメージでいいようだった。
こうして二人で話していくうちに、獏良はバクラに親近感を抱くようになった。友人とも兄弟とも少し違う。千年リングを通して自分の身体の中にいるのだから、誰よりも近い存在だ。そんなことは普通はありえない。けれど、遊戯ともう一人の遊戯、という似た事情の二人は身近にいる。獏良にとって羨ましい関係だ。そんな二人に近づけているかもしれないと思うと嬉しかった。
*
美術館の部屋でジオラマの土台を作ろうとすると、バクラは変わったことを言った。地面を砂にしたい、と。砂を敷いて台座から排出できるようにして欲しいらしい。
思わず獏良は瞬いてバクラの顔を見た。そんな大がかりな仕掛けが必要なのだろうか。
バクラによると、大規模な地殻変動——カタストロフィが当時起きたそうだ。だから、忠実に再現するにはそうするべき、ということらしい。
「ええ……。ちょっと待って……」
獏良が額に手を当てて困惑すると、
「無理か……」
バクラは眉尻を下げてとても残念そうな顔をした。
その顔はとても哀れだった。三千年も冥界に行けずに困っているのだから当たり前だ。なんとかしてあげたい、という気持ちが湧いてくる。
「頑張っては見るからっ。そんな仕掛けなんて作ったことはないから、できるかは分からないけど」
慌てて慰める言葉を口にした。
「本当か?やっぱり宿主は頼りになるな」
そう言って表情を和らげるバクラ。
獏良はその顔を見てほっとしたのだった。
通常、ジオラマの土台には発泡スチロールや住宅に使われている断熱材のスタイロフォームを使用する。要するにしっかりとした土台でなければならない。模型を置かなければならないからだ。なおかつ必要に応じて削ったり、切り離したり、加工が可能な土台といえば限られてくる。それを砂にしろ、というのは難題だ。
一般的に砂地を作るには、土台の表面をヤスリやブラシなどで削り、凹凸をつけた上で塗装する。それを砂でやるのは模型の足場が不安定になる。もちろん接着もできない。風が吹けば一巻の終わりだ。
獏良はこのことで何日も悩んだ。模型作りのサイトを調べたり、本を読んだり。どこにも答えはなかった。当然ながら崩壊前提の模型など存在しないからだ。強いていえば、特撮の撮影に使われるくらいなものだ。
分割式のジオラマなら存在はする。複数になるように製作し、展示する際には繋げるジオラマ。振動でズレてしまうという難点があるものの、持ち運びや収納に便利という利点がある。
獏良は悩んだ挙げ句に分割式ジオラマを応用することにした。四分割などの少ない数にするところをもっと細かくする。形はいかにも崩壊しているように異形にする。すべてを繋げれば長方形に見えるが、実際はたくさんの形からできている。大型のパズルのようだ。王宮などの一部は大きなパーツにして外枠に固定することで安定させた。
祭壇の下部には通気口らしきものがついている。植物プランターの排水用穴のようなものだ。そこから砂を排出させてみようと決めた。通気口に受け皿用にボトル容器を設置し、砂がそこへ落ちるようにした。
ここに至るまでまったくの順調だったわけではない。従業員に祭壇の構造について訊いたり、容器を借りたりした。砂が漏れて悲惨な状態になったこともある。試行錯誤を繰り返し、やっと希望通りの仕掛けができた。ここがジオラマ製作で一番の難所だった。
祭壇の上部に薄い紙を貼って穴を隠し、細かい砂を敷き詰める。これで開口部分を塞いでいる紙に少しの衝撃が加えられれば砂が落ちて地殻変動が起こっているように見える——かもしれない。砂はボトルの中に落ちていく。
足場に不安があるので粗い砂を上に足し、平らにする。そこでようやく分割したスタイロフォームを埋めていく。スタイロフォームには既に砂漠に見えるように彩色や凹凸をつけてあるので難しい作業ではない。
地盤ができれば、あとは製作図通りに組んでいくだけだ。岩山は石膏で作ったものを繋げる。ナイル川はスタイロフォームを削って凹ませたところに色を塗り、水で溶いたニス剤を流し込んで固める。残りの建物や人物などの模型は、美術館の未使用のものを借りたり、所有しているものを持参した。それでも足りないものは製作することになったが、土台作りに比べれば大した手間ではなかった。
この作業は友人の誰にも明かしていなかった。バクラはもう一人の遊戯とは犬猿の仲で、バレたくなさそうだったからだ。もう一人の遊戯に隠すことは、遊戯にも隠さなければならないこと。遊戯に隠すには、城之内にも本田にも杏子にも隠さなければならないだろう。
必然的にバクラと秘密を共有しているということになる。そんな日々を続けているうちに特別な関係のように思える。初めて感じるむず痒さになんだか浮かれた。
*****
獏良のエプロンが最初と比べると汚れが目立つようになったところで、ジオラマは完成した。爪の隙間に塗料が詰まっていたし、恐らくは顔にも付着していただろう。
腕で額の汗を拭い、大きく息を吐く。目の前には、作ったことのない巨大なジオラマ。とても自分一人では無理だと思っていた。湧き上がる達成感。高揚して頬が赤らむ。小躍りしたい気分だった。
獏良は塗料まみれのエプロンと髪を束ねていたゴムを取り、服の下にある千年リングに話しかけた。
「ねえ、やっと完成したよッ」
呼びかけに答えて、バクラが隣に現れた。
他人には見えない姿で祭壇に手を置き、ジオラマを見下ろす。
最初に口から出たのは、満足げな深い溜息。そして、一つ一つの箇所を指で差す。
「王宮、町、ナイル川、王家の谷、廃村——。よくできてるな」
「ほんと?!よかったぁ」
獏良はホッと胸を撫で下ろす。これまで大変だった。ジオラマに時間をこんなにかけるのは初めてで完成するか不安だった。バクラの希望通りにできているのかも。
「設計図通りに作ったつもりでも不安で……」
安堵からそれまで抑えていた感情が溢れ出し、ジオラマについて饒舌に話し始める。
「砂を排出するには、ここの部品を押して……。岩山は自分でも少しこだわってみたんだけど。質感とか。型で抜いた後にヤスリをかけて。大事だって言ってたもんね。本当は現地取材に行きたかったなあ。そんな時間ないから行けなかったけど——」
「完璧だ。いや、想像以上だ。さすが宿主……」
獏良の言葉を遮るようにバクラが話し始める。視線はジオラマに向けたまま。どこか恍惚の表情で。
「これで始められる。三千年……これまで長かったぜ。最後の儀式だ。王に裁きを下せる」
喉の奥から忍び笑いが漏れている。
獏良はバクラの豹変に戸惑う。まるでこちらのことは存在していないような言動。昨日まで普通に会話をしていた。「あともう少しだよ」「そこまで焦らなくていいんだぜ。倒れるぞ」「大丈夫。最近調子いいんだ、僕」獏良から血の気が引いていく。
バクラは思い出したように獏良の方に向き、
「いい仕事をしてくれたな。ありがとよ。そして——」
口端を上に引き上げて三日月のような歪んだ笑みを浮かべる。指を開いた手が獏良の顔面に迫ってくる。「これはダメだ」と思ったと同時に眠りに誘われて意識が遠退く。意識が途切れる前に聞こえた声は、「さよならだ」。
*****
次に獏良が目覚めたときは、何もかもが終わった後だった。ジオラマはすっかり崩壊していて、見知らぬカードや砂時計が散乱していた。胸元にあったはずの千年リングは失くなっていて、何が起こったか朧気に察した。千年リングへの興味はすっかり消失し、ただただ椅子に座ってぼんやりとジオラマを眺めていた。
遊戯たちに「大丈夫か?」「何があったか覚えてるか?」と質問をされても、耳の右から左へ通過して頭に入ってこない。懸命に作ったジオラマの惨状に悲しいという気持ちより、虚しさが勝ってしまい、何もかもが億劫だった。友人に迷惑までかけてしまった。
「やっぱり病院に行った方がいいかもしれないよ」
遊戯の心配そうな声を聞き、やっと獏良は我に返ることができた。頭を横に振り、弱々しいながらも口元に笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ。ごめんね。ずっと寝てなくて。凄く疲れてるんだ。病院より家で寝たいな」
「そう……?」
「うん」
そうして重い身体に叱咤して、帰路に着いた。友だちと別れ、一人で歩いていると、目尻から勝手に涙が流れ始めた。それが頬を伝い、ぽたぽたと下に落ちていく。
——嘘だったんだ……。全部全部。僕を利用するために……。
獏良は家に帰ってから、丸一日眠り続けた。
*****
三日が経ち、獏良はもう一度美術館を訪れた。父に「散らかしたから、あとで片づけに行く」とメールはしてあった。ジオラマを目にしたくはないが、さすがに部屋を使用するだけ使用して、そのままというわけにはいかなかった。
従業員専用口から入り、部屋に向かう。以前は機嫌よく廊下を歩いていた。今は憂鬱でしかない。
顔見知りの従業員が前からやって来る。いつも通り会釈をして、すれ違おうとした。今は話をする余裕はない。ところが、従業員は親しげに話しかけてきた。
「倉庫に荷物を片づけに行ったときにジオラマを見たんだけどね。凄い完成度だったよ!プロみたいだね」
「あ、いえ……。使用した後なので、散らかしてしまって……」
「でも、壊れているわけじゃないんだよね?うちの模型をあんなに使いこなせるなんて。それに学芸員も『よく研究してる』って言ってた」
興奮気味に話しかけてくる従業員とは対照的に、獏良は「はあ……」とだけ相槌を打ち、反応に困った。ジオラマはバクラに頼まれて作ったものだ。確かに製作に苦労はしたが、設計図はバクラの指示なしでは成り立たなかった。
「それでね。ジオラマを直して展示室に置かせてもらえないかなあ?」
従業員の提案は青天の霹靂だった。
「え?!いいですけど……」
「君のジオラマは人の目を引くと思うんだ。職人の作品みたいだったしね」
今まで趣味で作っていたものを大人に褒めてもらうのは初めてだった。落ち込んでいた獏良の気持ちが少し浮上する。
ジオラマや模型を仲のいい友人たちに見せて喜ばれたことは何度かある。しかし、それは狭い人間関係の中でだ。大人に、しかも専門家に褒めてもらえるものだとは思ってもみなかった。
「じゃあ、ジオラマはそのままにしておきますね。解体するつもりだったんですけど」
「勿体ない勿体ない!何なら、時間があるときに片づけの手伝いもするよ!」
そこでやっと獏良は自然な笑顔を浮かべることができた。ここ数日間、食欲が出なかったというのに。悪事に利用されてまるで呪われてしまったかのようなジオラマが、報われる気がしたのだ。
——僕のジオラマも人の役に立つんだな……。
陰鬱な気分に苛まれていたところに一筋の光が差した。少しだけ前に進めたかもしれない。獏良にとって救いの手を差し出されたようなものだった。
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黒のトレンチコートを着てジオラマを見下ろす男がいる。
当時の町が蘇ったような出来映え。細部までこだわっていて申し分ない。
室内にはミイラなどの新たに運び込んだ展示物がある。
これから始まるゲームの進行がどうなろうと、今までのぬるま湯のような生活が終わることは決まっている。
男は身体の中で眠っているジオラマの製作者に向かって一言告げた。
「楽しかったぜ、宿主」
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嘘の中には真実がある。