ばかうけ

四方を白で染められた広間。中央に一人用の机、奥の小上がりに長机が設置されている。その二つは対面するようになっていた。
長机には数人が着席していて、中央の長い髭を蓄えた老人には計り知れない威厳がある。
例えるなら、裁判所の法廷。罪を裁く場所に外観が似ている。ただし、あるのは裁判官席と証言のみ。
法廷の左右にあるはずに当事者席——検察官や裁判官が座る場所——はここにはない。傍聴席もない。
代わりに壁に沿ってスーツを着込んだ男たちがずらりと並んでいる。
言葉を発することすら許されない物々しい空気が漂っていた。
「次」
静寂を破るように裁判長と思わしき人物が厳かな声で言った。
ここは死者が裁かれる場所。死者は例外なく生前の罪が問われる。善悪を天秤にかけ、遺族の祈りによって罪が軽減される。善に傾いた者は人間でいうところの天国へ、悪に傾いた者は地獄へ。
死後の世界は人間世界の常識は通用せず、死者は無慈悲に裁かれていく。生前の行いが一つ残らず記録されているこの場所では言い逃れはできない。
次に現れたのは細身の若い男だった。長い白髪と切れ長の目が特徴的。両手には手枷。
今まで一切の感情も見せなかったスーツの男たちに初めて動揺が見えた。声こそ出さなかったものの、口から震える呼吸が漏れる。現れた男の発する気配がそうさせていた。
男は周りの反応を気にすることはなく、裸足でペタペタと中央の証言台に向かう。どこか気だるげで視線をどこに向けることもなく立ち止まる。何にも興味がないようだった。
この証言台に立てば、どんな人間も大なり小なり反応を見せる。すべてを見透かされてしまう恐ろしさがあるからだ。
それなのに男には一切の感情も見えなかった。
広間の中でただ一人、裁判官席の中央に座る老人が口を開いた。黒服たちと違い表情には出さなかったものの口の中は渇ききっている。これまでの長い経験により辛うじて自尊心を保っているに過ぎない。
他の死者への対応と同じように生前の罪を読み上げていく。普通の人間とは比べられない長さ。罪状が記載されている巻物が延々と伸びていく。
黒服たちはその内容に汗を流したり、呼吸を荒げたりしていた。
裁判長はすべての罪状を読み上げると、木槌を叩く。重い音が広間に響き、場の空気を打ち破る。
「——よって、この者を……」
初めて裁判長に感情が見えた。ものの数秒の逡巡。一呼吸置き、改めて言葉を続ける。
「この者を——」
今度こそスーツの男たちから声が漏れた。そのさざ波が集まり、どよめきにも似た音になる。ざわり。
裁判長の下した判決にも男自身の顔色は変わらなかった。やはりつまらなさそうに、聞いているのかいないのか区別もつかない。
「異論はないな?」
男の沈黙に耐えかねたように裁判長が念を押す。
そこで初めて男が口を開いた。どこを見ているか分からなかった視線をはっきりと裁判長に向けている。
「条件がある」
広間に通る若い男の声。その場にいる誰もが聞き耳を立てた。続く言葉に全員が呆然とする。体裁を取り繕う余裕もない。ただ罪人の満足げな哄笑だけが法廷に響き渡った。

*****

四方を白に染められた長い廊下。窓や障害物などの余計なものはない。そこには長い列ができていた。人間が延々と続く廊下に一列で並んでいる。あまりにも長いので、先は見えない。それでもみんな不服を漏らすことなく律儀に並んでいる。
ここは人間が死後訪れる場所。つまりは死後の世界。
死者はまず死亡の手続きをしなければならない。役所に似た窓口に通される。事務的に死亡手続きをし、最後に整理券を渡される。ここまではあまり時間はかからない。
その後は全員が生前の罪を問われる裁判にかけられる。整理券は裁判を受ける待ち番号というわけだ。
獏良は制服姿で長蛇の列の中間に並んでいた。ズボンのポケットには窓口で渡された整理券が入っている。
前後に並んでいる者たちの年齢は様々。年端の行かない子どもから高齢者までいる。しかし、その姿は実年齢とは違っている。
獏良自身も生前は高齢だった。命の灯火が尽きたときは頭に靄がかかっていて、自身の年齢も覚束なかった。長い夢を見ていたような心地だった。死後に意識がはっきりしたときには高校生の姿だったのだ。
ずっと同じ列に並んでいると、手持ち無沙汰から周辺にいる赤の他人と自然と話すようになる。「まだまだですね」「どちらに住まれていたんですか?」「生きていた頃は——」
そうして、獏良は死後の世界について知識を集めることができた。死者は命を失ったときの姿をしているわけではなく、そのときに思考をしていた姿をしているのだとか。
例えば、実年齢が六十歳を超えていても、死亡したときに脳内年齢が十歳であれば、十歳の姿をしているというのだ。
突然に事故に遭った者はそのときの肉体年齢と変わらないことが多い。高齢者の場合は往々にして認知力が低下している。だから、死後に若いときの姿をしているらしい。
それを獏良に教えてくれた小学校低学年くらいの女子は、実年齢が九十六歳だという。母親に抱きしめられている子どもの頃の夢を見ていたら、いつの間にか死後の世界にいたとのことだった。
つまり、死者は死亡したときの精神年齢の姿をしているらしい。死後は肉体から解放されて魂の姿になる。そのお陰か生前よりも意識がはっきりとする。死者たちは誰もが晴れやかな顔をしていた。生前の怪我や病気の苦しみは一切ない。
獏良が一生で一番印象的なのは高校生の頃だ。長い人生で様々なことがあったが、高校時代はやはり強烈な印象があったのだろう。死んだ瞬間のことは覚えていないが、心臓の鼓動が弱くなっていくときに、若い頃のことを考えていたように思う。転校を繰り返していた日々、常人ではありえない命の危機、かけがえのない友人に出会ったこと——。だからなのだろう。死者となってから高校生の姿になったのは。

周りの人間と会話をしているうちに列は少しずつ進む。うつし世で長時間並ばされれば、不満が噴出するところだが、魂だけの存在になった者たちは大人しく立っている。疲れる身体がない、時間の感覚がない、執着するものがない。悟りを開いた仏のようだ。死者になってからは、生前とは打って変わって心穏やかにいられる。
ごく稀に暴れる者もいる。そういったときは死者の国の番人たちが速やかに捕らえて何処かへ連れていく。ただの人間の魂では彼らには太刀打ちできないという。
獏良は大多数の死者と同じように大人しく列に並んでいた。他の死者たちと話すことで退屈はしなかったし、そもそも実年齢からして慌てることもなかった。
それでも、徐々に自分の番が近づいてくると緊張した。人間の背丈を優に超える大きな扉が前方に見える。その向こうに死者たちが一人ずつ順番に入っていく。中で何が行われているかは見えない。死者の裁判だということは分かるが。
他の死者の話からすると、大抵は無罪になるようだ。人間として真っ当に生きた者は案じることはないらしい。さらに有罪は有罪でも、犯した罪により課せられる罰も変わるのだとか。地獄で厳しい罰を受けるのは大罪人だけだ。
だから、周りの人間たちは緊張する様子は見せても不安げな顔はしていない。獏良だけが呼吸を浅くしていた。生前に気がかりなことがある。自分自身が罪を犯したことは決してない。決してないが、内にあったもう一つの人格が大罪人だった。
忘れたくとも忘れられない。一生の内で高校時代が一番印象深い理由だ。もう一つの人格が勝手に獏良の身体を勝手に動かし、いくつも罪を犯した。そのときの記憶はないが、獏良の罪になるのだろうか。
人生を百八十度変えてしまった出来事は、最期まで獏良の心の中に巣くっていた。
「次」
番人のハキハキとした声に押されるようにして、獏良は裁きの扉をくぐった。
通された先は廊下と同じく白一色の大広間。中央に一人用の机、奥の小上がりに長机が設置されている。その二つは対面するようになっていた。
長机には数人が着席していて、中央の長い髭を蓄えた老人には威厳がある。
ドラマやニュースで見る法廷のようだった。だとすると、中央の老人は裁判長——責任者だろうか。
壁にはスーツを着込んだ男たちがずらりと並んでいる。
一番近い位置にいる男に促され、獏良は訳も分からず証言台のような机についた。
「氏名を」
老人の言葉に恐る恐る口を開く。
「獏良、了、です……」
その瞬間、沈黙が破られ、周囲の黒服たちから声が漏れた。その感情は恐らく畏怖。なぜか死者の番人たちが、ただの人間である獏良に怯えている。
中央の老人だけが落ち着いた様子で木槌を叩く。
「そなたを冥界送りとする」
「えっ!」
獏良は体裁を忘れて身を乗り出した。「冥界」ということは、地獄のような場所だろう。確かに褒められた人生ではなかったのかもしれないが、有無を言わさず有罪にされてしまうほど罪深いことをしたというのか。思い当たることは一つだけあるけれど。
「そんな……僕は」
言い返す前にスーツ姿の男二人に両脇から抱えられて引きずられていく。
入口と比べると目立たないドアが部屋の隅に二つあり、その内の一方に連れて行かれた。続く長い通路を歩かされる。右へ左へ延々と折れ曲がり、先は開けた場所だった。
太陽が届かない黒の世界に草木が生えない荒涼とした土地。ところどころに燃える炎が点在していて光の代わりになっている。本能的に恐ろしいと感じさせる場所。気候のせいか気配のせいか、獏良の肌がチリチリと焼けるようだった。
連行されたのは、この冥界では異質の場所。左右対称の日本建築物。神社仏閣などで見られる様式。白壁に朱色の柱、青緑色の瓦屋根。荘厳な佇まいで荒々しい風景から切り離されたような場所。
獏良は思わずその建物を呆然と見上げた。黒服たちが入口に立つ守衛らしき人物に話しかけると、屋敷の中から迎えの者が出てきた。男たちは獏良をその者たちに託すと、すぐさま帰っていった。
説明もなく残されて不安げな獏良に迎えの者は深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました」

    *

屋敷の中は廊下がいくつも枝分かれしており、天井は見上げるほど高かった。先導する迎えの男は迷う素振りも見せず、姿勢正しく歩く。
「我が君はずっとあなた様をお待ちでした」
「はあ……」
男の恭しい態度は、どうやら獏良は客人として招待されているらしいことを示していた。地獄の責め苦が待ち受けているわけではないことに少しだけ心が落ち着く。が、依然として冥界行きとなった理由が分からない。「我が君」とは一体誰のことなのか。冥界に知り合いなどいないのだが……。
「こちらです。我が君がお待ちです」
高さ三メートルほどの両開きの扉に辿り着くと、男は一礼をしてから道を空けた。ここからは一人で行けということなのだろう。
獏良は一呼吸置いてから緊張気味に扉を両手で押した。
ギイという重々しい音と共に正面の視界が開けていく。目の当たりにしたのは、先ほどまでいた死者の役所にあった法廷と似た造りの部屋。中央に一人用の証言台。そして、最奥の小上がりには——。
「エッ」
裁判長の席に座る人物が視界に入ると、獏良の口から間の抜けた調子の声が出た。
同じ白の長髪、緋色の瞳、整った顔立ち、そして痩身。見たことのない黒い法服を身につけているが、何年経っても忘れることのできない人物——己の中に潜んでいたもう一人の人格。
獏良は咄嗟に回れ右をして来た道を戻ろうとするが、案内役の男が遮る。強引に部屋の中へ押し込まれた。扉は無慈悲にも閉められる。
「なぜ逃げる」
不服そうに鼻を鳴らして裁判長は言った。
「当たり前だッ!」
緊張も不安もすべて頭から吹き飛んでいた。残っているのは困惑。なぜか、いるはずのない人物が冥界の要職にいる。
「感動の再会ってヤツだろ?宿主様」
溜息混じりに髪を搔き上げる相手を獏良は睨む。
「なんだよ、それ!」
かつて心の中に潜んでいた闇そのもの。十代の頃に散々苦しめられた。死後に高校生の姿でいる大元の原因。忘れようと思っても忘れられるわけがない。半世紀以上ぶりだ。友人の力により消滅したと思っていた。まさか、冥界で再会することになるとは。まるで本当に高校生に戻った気分だ。
怒鳴られた本人はなぜか目を細めて満足げな顔をした。
「待ってたぞ。長生きしやがって」
獏良は物騒な言葉には反応せず、バクラに憎々しく言い返す。
「何の用?まさか、死んだ後にも粘着されるとは思わなかった。まさか、お前がこんなところにいるなんてね」
精一杯の嫌味にもバクラは悠然とした態度のまま。
「事務官に聞かなかったのか?お前はこれから極楽ではなく、ココで暮らすことになる」
「なっ——?!」
獏良から問いかける前に答えが返ってきた。
「上の裁判官との取り引きでな。死者の国は人手不足なんだよ。増えすぎた人間を裁ききれない。上の裁判官サマの手に負えない凶悪犯を裁くのがオレだ。オレは曲がりなりにも神だぜ。天界のお偉いサン方も扱いづらかったと見える」
そう言ってくつくつと笑う姿に獏良は唖然とするしかない。長い人生を勤勉に生きた結果としてはあんまりではないか。顔から血の気が引いて言葉を失った。
「まあ、取って食おうってわけじゃねえんだ。安心しな」
バクラは席を立ち上がり、獏良のいる証言台まで下りてくると、肩を軽く叩いた。
「疲れてるだろ?今日のところはゆっくり休め」
これ以上の接触はなく、早々に法廷をあとにすることになった。

    *

獏良は困惑したまま事務官に再び連れて行かれた。通されたのは、入口に近いこぢんまりとした部屋だった。広さとしてはビジネスホテルの一室より余裕がある。簡素だが生活に不自由しない程度に家具が揃っている。
必要なことがあれば呼び鈴を鳴らせば対応をしてもらえるという。元々、死後の世界だから食事の心配はしなくて済む。冥界行きと決まったときはこの世の終わりかと思ったが、なかなかに居心地がよさそうだ。
獏良はこの事態に疑問を持ちながら、柔らかいベッドで身を休めることにした。

事務官が改めて獏良の元へやって来たのは半日後。屋敷内を案内するということで部屋から外に出た。
屋敷内は数えきれないほど部屋があり、奥の間はバクラの住まい、中央には執務室が据えられている。他にも書物室や衣類室など、覚えきれないほど様々な用途の部屋がある。その一つ一つに名前がつけられているが、獏良は覚えられる気がしなかった。そもそも部屋の数が多すぎて場所すら把握できない。まるで宮殿だ。自分の中に居た存在がこの広大な屋敷の主となっているのは不思議な気分だった。
目を白黒させる獏良に事務官は、
「これからゆっくりと覚えていけばいいのですよ」
と優しく微笑んだ。

バクラと再会をした広間の扉の前で事務官は立ち止まる。巨大な扉があるのはここだけだったから、見た目で判断できた。裁判が行われる部屋だ。獏良も上の役所で被告として立ったから行われている内容は想像ができる。
「我が君はただいま裁判中です。中を見学することもできますが、なさいますか?」
獏良は小さく首を横に振った。なぜか立ち入り難い気がしたのだ。バクラが審判を下している姿は想像もつかない。
扉からは近寄り難い威圧感が漂っていた。行われている裁判の過酷さからなのか、獏良の怖気がそう感じさせるのか、判断ができない。逃げるように立ち去るしかなかった。
その晩、獏良はなかなか眠りに就くことができず、布団の中で一日の出来事を頭の中で反芻していた。

*****

多忙のはずのバクラは毎日獏良の顔を見に来た。早朝、お茶の時間、寝る前——気まぐれに短時間だけ二人は顔を合わせていた。
冥界での立場を知ってからというもの、獏良はまともにバクラと関わるのが気まずくて、顔には出さないものの言葉少なく対応した。
バクラ本人は以前と変わらない態度で振る舞った。そのせいで獏良側に自責の念が生まれつつある。いっそのこと服従を強制させられれば、抵抗もできるはずだ。負から生まれた存在なのにそれをしないことに、意味があるように思えてしまう。
——まるで……大切に扱われてるみたいじゃないか……。
獏良はバクラの視線に気がつかないふりをして二人の会瀬をやり過ごした。

獏良の生活は快適だった。毎日シーツは替えられているし、服も用意されている。霊体に食事の必要はないが、嗜好品としてお茶と小菓子を出される。屋敷内なら自由に歩き回ってもよいとのことだった。
テーマパーク並にとても広い屋敷だから退屈することはなかった。現世では見たことのない本や財宝を見ているだけで飽きない。和風の室内庭園もある。人工植物や池すらあって風流だった。外の禍々しい景色とはまるで違う。
屋敷の使用人たちは獏良とすれ違うたびに深々とお辞儀をした。まるで主人を敬うような振る舞いだ。今まで経験したことのない扱いに戸惑いを隠せなかった。獏良に対して向けられるのが好意だから負の感情を抱くことはない。ただ尻の据わりが悪いだけだ。

図書室で資料を読んでいるうちに、獏良は段々とこの場所について理解し始めた。バクラの説明通り、冥界は増えすぎた死者でパンク状態なのだという。死者を短時間で裁いて送るべき場所に向かわせなければならない。けれども、重罪人を裁くのは時間がかかる。これは現世の裁判と同じ。しかも罰の種類や時間の長さまで明確に決めなくてはならない。それだけでも時間がかかるのに、重罪人の罪と向き合うのはどうやら多大なストレスがかかるらしい。凶悪事件の犯人を担当した裁判官は何度も変わっている。
獏良は裁判の関連書の年表を指で辿った。この冥界の裁判所の裁判長は長い間空位だったらしい。バクラが久々の役職者だ。それからは裁判が円滑に進むようになったらしい。
冥界の裁判所に送られるのはほんの一部の凶悪犯だ。扱いに困ると言っても、わざわざ闇の存在に役職を与える必要があったのだろうか。
本に記載されているのは表面上の事実のみ。深い事情までは分からない。本人に訊いたとしても答えが返ってくるだろうか。いつもニヤニヤとからかうような反応しか返ってこないのだから期待できない。
獏良は深々と溜息をつくと、背表紙をゆっくりと押して本棚の中へ本を収めた。
ここで暮らしていて分かったことが一つある。バクラに「ここで暮らせ」と言われたものの、宛がわれたのは居住区である奥の院ではなく、入口に近い部屋だ。そこは来訪者用の部屋ということになる。現世の家屋と似た造りだ。冥界に軟禁するには不釣り合いの場所に思える。
考えれば考えるほど、獏良はますますバクラの真意が分からなくなるのだった。

*****

「我が君は裁判に入っておいでです」
ある日、午前中の早い時間に事務官は獏良にそう告げだ。普段なら了承したことだけを伝えるところだが、その日の獏良は違った。溜まった不満が限界まで達していた。事務官に裁判の様子を見たいと頼んだ。
事務官は慌てる様子はなく獏良を建物の中央部にある法廷まで案内した。特に立入禁止などの決まり事はなく、見学は自由だそうだ。現世の裁判所と変わらない。
二人は以前目にした大きな扉の前に辿り着く。
「防音のため二重扉になっております。まず一枚目を開きますね」
事務官は軽々と重々しい扉に手をかける。ゆっくりと少しずつ中の様子が視界に映る。六畳ほどの手狭な空間で置物はほぼない。正面には表よりも簡素なレバーハンドルつきの扉がある。中は庁舎のような事務的な造りになっているようだ。外とは異なり、法廷の音が漏れ聞こえる。
「最終陳述中ですね。申し訳ありませんが、しばらくお待ち下さい。すぐに終わりますので、その後入廷しましょう」
事務官はそう言うと椅子を持ち出し、獏良を座るように促した。
獏良が耳を澄ますと、確かに中から聞いたことのない男の声が聞こえてきた。ぼそぼそと不明瞭で内容は分からない。しばらくすると声が止まった。
「以上だな?」
今度ははっきりと聞きやすいバクラの声がする。
「つまりお前は共に暮らしていた家族たちを一時の感情で手にかけてしまった。わざとではない、とあくまでもそう言うんだな。日頃からストレスを与えられ、爆発してしまった、と」
「はい……。今は反省しています」
落ち着いた言葉に加え、被告らしき人物の弱々しい返答も聞こえた。
罪状の詳細までは分からないが、バクラの言葉によると情状酌量の余地があるように聞こえる。冥界に落とされて再度裁判にかけられるまで酷い罪を犯したようには思えない。男の同情を誘う声もその印象の一端を担っている。
次にバクラが口を開いたときには高圧的な声に変わっていた。
「なるほど……。それでお前は『自分は悪くない』と、そう言うんだな?」
「いえ……そういうわけでは……」
男の言葉は歯切れが悪く、言葉尻が萎んでいく。その隙をバクラが逃すことはなく、すぐに言葉を畳みかけた。
「まず、お前は全員が寝静まった後に家中を念入りに施錠した。これは家族を逃さないため、外から邪魔が入らないようにするためだな。小賢しいことをする。それから、家族全員を拘束した——。おや、おかしい」
そこでわざとらしく声色が変わる。
「家ごと家族を燃やしたとあるが、死亡時刻まで空白の時間が随分とあるなあ。ココに全部書いてあるんだよ」
パンパンと紙を弾く乾いた音がする。
「なるほど。夜明けまでの間、その大切な家族様を弄んだワケだ。まずは、抵抗する気が失せるように暴力で屈服させる。書類には事象しか書いてねえが、行動を見れば明らかだ。随分と楽しんだようだなァ。記録によると遺体の状況は足の指が——」
獏良が聞こえてくる内容に目眩を起こしかけたとき、事務官がさっと手を差し伸べた。
「申し訳ありません。あなた様にお聞かせする内容ではございませんでしたね。私の配慮が足りませんでした。どうぞこちらへ」
促されるままに扉の外へ向かう。
中から聞こえたのは陰惨な内容だった。ニュースで見聞きするよりも具体的な真実。バクラの仕事については知らされてはいたが、詳細までは想像していなかった。上で裁ききれない人間の犯した罪ともなれば重罪であるはずだ。そんな法廷を安易に耳にしていいわけがない。
バクラは今まで態度に出さなかった。聞いているだけで気分が悪くなる事件にいくつも触れてきたことを。おくびにも出さずに軽口を叩いていた。
閉ざされた扉からは何も聞こえない。そこに粛然と佇んでいるだけ。
「あの……。いつもあんな事件を……?」
獏良の煮え切らない問いに、事務官は気にする様子もなく淡々と答える。
「はい。上では手に負えないケースですから、一般的な事件ではありません。闇からお生まれになった我が君だからこそなせることなのです」
最後に付け加えた言葉には少しだけ感情が見えた。
「我が君は……あなた様がお受けにならないのなら、この屋敷から出て極楽へ向かわれてもよいとお考えなのですよ」

    *

「——この時間までお前は家族をじわじわと嬲り殺しにした。息の根が止まらないように綿密に計画してな。拷問と同じ方法だな。よって過失ではなく故意だ。お前の心の内まではさすがの冥界の王でも読み取ることはできねえが、行動が雄弁に語ってるぜ。これのどこが『わざとじゃありません』だ。この二枚舌が」
バクラは肩肘をついてつまらなさそうに陳述書を叩いた。人間にとっては悪逆非道も甚だしい内容でも闇から生まれた存在であるバクラには何も感じない。この閻魔宮に送られてくる罪人たちは似たような者たちばかりだ。悪逆非道な罪人たちでも、バクラにとっては辟易はするもののただの人間でしかない。だから、一切の情などかけずに冷静に判決を下す。
多数ある刑罰から相応しいものを選ぶ。殺人はもっとも罪が重い。人の一生より気が遠くなる時間の罰を受け続けなければならない。それが死後の世界。
バクラは義務的に木槌を叩き、罪人に告げた。
「地獄の業火に焼かれながら悔い改めるんだな」

うなだれた罪人は警備員に引き立てられていく。バクラはそれを見送った後、書類に今の判決を書き留めた。この後、自室で報告用の書類を作成する予定だ。
人間の愚かな感情に触れていると胸焼けがする。負の感情を糧としてきたが、浅知恵を聞かされるのまでは好んではいない。
長い間空席だったこのポストを任されたのは、天界からの罰ということなのだろう。天界の神たちは手に負えない邪神であるバクラに役職を与えて冥界に閉じ込めたのだ。
バクラは立ち上がり、法廷をあとにしようと扉を開けた。そこには暗く顔を曇らせた獏良が立っていた。
「どうした?」
少し驚いたものの、表情を和らげて問いかける。
獏良は答えない。何かを躊躇うように立ち尽くしている。
裁判内容を聞いていたのだろうか。見学が自由でも普通の人間に聞かせる内容ではないから、気分が悪くなっている可能性がある。場所を移動しようとバクラが促す前に、獏良の口がやっと開いた。
「——ずっとこの仕事を続けているの……辛くない?」
そこでバクラは獏良の反応に合点がいく。優しいこの宿主は心配をしているらしい。元寄生虫を。少々刺激的な裁判内容を聞いたという理由もあるかもしれない。
バクラは軽く笑い、腰に手を当てる。
「まー、くだらねーお喋りに付き合うのは退屈だが、念仏聞いてるよかマシだな」
いつもに調子の軽口にも獏良の眉毛は下がったまま。それでもバクラの言葉をじっと読み取っているようだった。やがて、決心した顔で言った。
「僕、ここで暮らすとか、まだ考えられないけど……お前の話し相手くらいにはなってもいいよ」
少しだけ唇を緩め、バクラの顔をじっと見つめる。
「どういう風の吹き回しだ?」
予想外の言葉にバクラは瞬きをして首を傾げた。
「内緒」
獏良はまだ少し硬い表情のままで悪戯っぽく言葉を濁した。

*****

ここは死者の世界で手に負えない罪人たちを裁く閻魔宮。長らく空席だった閻魔の座に着いたのは、元大邪神。慈悲なく次々と裁きを下す男の横には、いつも人間の少年が柔らかい表情で立っていたという。

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