「はあ……」
暗い路地に身を隠し、僕は一息ついた。
さっき全力疾走したせいで、心臓がうるさいほど鳴っている。
あまり走ってないはずなのに、この体たらく。
日頃の運動不足が悔やまれる。
うん、今度から少しは体を動かすことにしよう。
信用ならない決め事を胸に誓い、こっそりと通りの様子を盗み見た。
こことは違う太陽に照らされた光の中を息を潜めて。闇からそっと。
乗り出せばよく見えるだろうけど、僕にそこまでの勇気はない。
僕にとって、あの人たちに見つかるのはとても恐ろしいことだ。
逆上ることほんの数分前、僕はのんびりと光の中を歩いていた。
そこをどう見ても真っ当ではない人たちに目をつけられ、状況は一変した。
童実野町は住みやすい町だけど、その反面、柄の悪い人たちが沢山いる。
これは僕の、ほんの数回引っ越しただけの見解だから、偏ってる考えかもしれないけど。
なんだかよく分からないけど、彼らは僕に馴々しく話しかけてきた。
要領を得ない話し方には少しうんざりしたけど、とどのつまりは「無期限で貴方のお金を貸してくれませんか?」と、彼らは言いたかったらしい。
冗談じゃない。
生憎人通りは少なくて、助け船を出してくれる人はいなかった。
あまり長いとも言えない人生の中で思いつく、こういう人たちの接し方は、下手に出てどうにかこうにかなだめること。
そう決めたのに、その中の一人の口調が乱暴で、あまりにも……
あまりにもあいつの口調に似ていたから、つい反射的に言い返してしまったのが運の尽き。
どうにか逃げ出してきたけど、きっとまだ彼らは僕を探してる。
犬と同じで、逃げると追いかけて来るって、城之内くんが言ってたし。
逃げ出したときは意外と速く走れると思ったけど、あれはただ単に「火事場の馬鹿力」というやつだったらしい。
今、僕の体力は底を尽きそうだ。
ああ、なんであんなこと言っちゃったんだろう。
いつもの僕なら絶対に言ってない。
いつからこんなに口が悪くなっちゃったんだろう。
自己嫌悪の波が僕に覆いかぶさる。
いけない、いけない。
暗くなるくらいなら、上手く逃げる方法を考えなくちゃ。
残念なことに、僕は童実野町に引っ越してきて長くないから、大きな通りはともかく、無数に枝分かれした小道まで把握してない。
つまり、こっちには圧倒的に地の利がない。
なら僕は……
どうしたら良いんだろ?
良い考えが全く浮かばなくて、頭を抱え込んでしまいたくなった。
ああ、もう、バカ。
こうしているうちに、彼らが僕を見つけてしまうかもしれないのに。
こういう時ぐらい……。
僕は胸にかかった千年リングを恨みがましく見下ろした。
助けてくれても良いじゃないか。
一つぐらいは、僕の為になることをしろよ。
慌てて、僕はその考えを振り払った。
あいつに縋る気持ちはあってはいけない。
ほんの少しも。
甘えるな。
そういう考えを引き起こす要因になった、弱気の自分自身を叱咤する。
でも……
どうしたら良い?
下手に動いたら見つかってしまう。
もし見つかったら、僕は……
殺される
は?
頭の隅で囁いた他ならぬ自分の声に目を見開いた。
殺される? いくらなんでも、そんなことはない。
よくない人たちとはいえ、少しばかりぐれてるだけだ。
最近物騒だといっても、そんなことがほいほい起こったら世の中めちゃくちゃになる。
映画の見過ぎだ。
手の丘でこめかみを叩いて、正気を呼び覚ます。
弱気になり過ぎだぞ。
額から汗が流れた。
嫌な想像はなくなってはくれなかった。
何を怯えてるんだ、僕は。
さっきの逃走劇のせいではなく、心理的圧迫感によって息が荒くなって動悸が激しくなる。
どくんどくんどくん
逃げなきゃ
殺される
彼らに……
あいつらに殺される
勝手に巡り出した空想に僕は戸惑った。
うそ、何これ。
両手で頭を抱え込む。
殺される。
何で?
だって前にもこんなことがあった。
何かの光景が脳裏を掠めた。
嘘、こんなことなかったよ。
殺される、殺されるよ。
みんな殺された。
いま出ていったら、僕も殺される。
彼らに……あいつらにオレも……
容赦なく切り捨てられて
違う
物みたいにみんな積み上げられて
違う
形が残らなくなるまで、ドロドロ
違う
ああ、みんなこんなになって……
違う!僕じゃない!
頭の中が弾けたような感覚があった。
息を整える為に大きく深呼吸を繰り返す。
こんなことは絶対になかった。
これは僕の記憶なんかじゃない。
これは、あいつの……
「代われ」
唐突にかけられた声に反応する間もなく、僕の身体が動き始めた。
路地から飛び出し、地面を強く蹴って方向転換、家の方向へ少しのためらいも見せずに疾走する。
疾風のように。
こんなに早く走る力が僕にあったのか。
どこか他人事のように、ぼんやりと思った。
実際、憎たらしいことだけど、今は僕が身体を動かしてるわけじゃないから違うのも無理ないか。
物凄い早さで走っているのに、息が切れることがない。
それは、立ち止まってはいけないから?
追いつかれてはいけないから?
こいつは早さを緩めることなく走り続けた。
僕は泣いた。
心で泣いた。
もう、あんな思いはしたくない。
心が叫んでいた。
これは、僕じゃなくて、こいつの心?
あの時、こいつも僕と同じように思ったのかな?
それを聞くことは僕には出来ない。
しかし、一つだけ今の僕に分かるのは、こいつがわざわざ出てきたのはこの記憶のせいだということ。
出てこないではいられなかったと言った方が正しいかもしれない。
走れ。
お前も僕も止まってはいけない。
がむしゃらに走れ。
力尽きるまで走れ。
風が心地よかった。
まるで、僕も、こいつも、風になったようだった。
でも……
でもさ、
こんなに一生懸命走っても、
お前も僕も
逃れられはしないのにね。
だろ?
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重なるように