人の記憶は酷くいい加減なものだ。
強い思い出でもあれば話は別だが、すぐに忘れたり、ねじ曲がったりする。
楽しかったこと、悲しかったこと、怖かったこと、それに記憶の種類は問わない。
要因は様々あって、単に時の流れのせいであることもあるし、故意的に手放すこともある。
その記憶がその者にとって、本当に必要であるかさえ分からずに、ただそこにある。
一つも確かなことなどない。
きっかけはなんだったのかは、よくは分からない。
ただ、ふっと獏良が遠い目をしたら、そうなっていた。
突然辺りを見回したかと思うと、かっちりと視線が合ったバクラに向かって首を傾げた。
「キミ、だれ?」
あどけなく、発せられたその一言に、バクラは冗談と言い返そうとして口をつぐむ。
その瞳の色が明らかにおかしかったからだ。
人形のようとまではいかないものの、何処となく力強さや意思の光が失われていて、一言で言い表すなら「幼い」。
「お前……」
バクラが言い淀んでいると、
「ああ、そうだ。学校へ行かなきゃ」
何かのスイッチが入ったように獏良は動き始めた。
いつものように身支度をして戸締まりをする。
ゴミ袋と鞄を持って、家を出る――変わらない。
先程の言葉と態度が嘘のように思えてくる。
あるいは寝ぼけていたかのように。
しかし、
「ねえ、さっきから思ってたんだけど……なんでキミ、ついてくるの?」
バクラの方を向き、全くの赤の他人に話しかけるように言った。
「お前、本気で言ってるのか?」
「ん?」
きょとんとした獏良の顔には何の欺瞞も感じられない。
「あ、遅刻しちゃうよ」
そして、また何事もなかったように学校へ向かって歩き出した。
バクラに発した奇妙な言動以外は何も変わったところはない。
普段通りに学校生活をこなし、何か不都合が起こるわけでもない。
ただ、獏良は端から見ても終始機嫌が良く、
「何か良いことあったのか?」
と、城之内が尋ねる程だった。
「ん?別に何もなかったけど」
その問いに獏良は笑ってそう返すだけだった。
良い友。
平穏な暮らし。
穏やかな自分。
理想の生活がそこにあった。
その様子をバクラは心の奥からじっと見つめていた。
ただ見ていた。
放課後も普段の生活とほとんど変わらずに獏良はすごした。
しかし、その生活の中にはバクラのみが存在していない。
バクラは確信した。
獏良はバクラに関しての全ての記憶を失っていると。
冗談にしてはタチが悪い。
それに、そういう冗談を獏良が好んでするはずもない。
獏良はバクラの記憶を、嫌な思い出を、全て無くしている。
辛い思い出がない上に、最上の友を手に入れている理想の姿なのだ。
「キミはなんなの?ユーレイ?」
家の中で時折姿を現すバクラに向かって獏良は首を傾げた。
「そう見えるか?」
「そうとしか見えないもん」
敵意なく、獏良はただにっこりと微笑む。
今の獏良はバクラに対する印象がまったくない状態なので、警戒することも威嚇することもない。
それはバクラにとって好都合なことだ。
余計な事を知らないので、簡単に操り人形にすることが出来る。
バクラは獏良の記憶に一切手を出さないことを決めた。
――その方がお前だって幸せだろう?
何も知らない獏良に向かって心の中でそう呟いた。
絵に描いたような、平穏な日々が始まった。
獏良は毎日のんびりとテレビを見たり、雑誌を広げたり、当たり前の生活を過ごした。
そして時々、思い出したかのようにバクラに声をかけた。
「一人じゃないんだもの。せっかくだから喋ろうよ」
友人に話しかけるように。
バクラは耳を傾け、適当に相槌を打った。
それでも、一人暮らしの寂しさが紛れるのか、獏良は楽しそうだった。
そこには憎しみも悲しみもなく、バクラでも気を楽に感じられる。
抵抗する獏良を押さえ付けることも、なじる必要もない。
それなのに、少し前までの関係を思い返すのを止められない。
どうして、このようなことになったのだろうか。
しかも、バクラのことだけが綺麗さっぱりだ。
頭を強く打った覚えはない。
だとすると、精神的なものが原因に違いない。
精神的に追い詰められた時、人間は一種の自己防衛として記憶を消してしまう。
今の獏良は膨大な量のノートの中から、バクラの部分だけを綺麗に消しゴムで消してしまったのと同じだ。
要らない部分を切り取ってしまうかのように。
『要らない』
それは完全な拒絶の言葉だ。
「そういうことか」
何も感じることはない。
薄々気付いていたことだ。
「どうしたの、キミ」
敏感にバクラの表情の変化を感じた獏良が顔を覗き込んだ。
「お前は……」
ずっと気にかけていたこと。
記憶がないなら尋ねてしまっても良いのではないか。
「幸せなのか?記憶があったときよりも」
バクラの問い掛けに獏良は目を丸くした。
「聞くまでもねぇか」
バクラはふうっと息を吐き、目を細めた。
それは多分、自嘲の笑みに似ていた。
自分は形がないから、宿主である獏良の記憶の中にとどまっていたいなどという感傷的な望みは全くない。
あるのは一種の独占欲。
宿主として、千年アイテムの所持者として、そして……
全てを物にしたいという、独りよがりな感情だ。
今の、記憶のない状態なら、そこにつけこんで望んだ通りに出来るかもしれない。
真っ白な布が何色にもたやすく染め上げることが出来るように。
しかし、それでは何かが違う。
どうしても気に入らなかった。
「なら、今のお前に聞くがよ、消したいほど嫌なことがあったら、全部綺麗さっぱり忘れたいと 思うか?」
「んー……?」
獏良は何故そんなことを聞くのと言いたげに首を傾げていたが、やがて、
「なかったことにするってこと?」
理知に富んだ瞳をバクラに向けた。
「とんでもない失敗をしたりしたら、なかったことにしたいなって思うよ。でも、どんなになく したいと思ってもなくなることはないし、何よりね……僕は今の僕でありたいから、そのままで 良いんだよ。嫌な過去でも、昔の僕がいなかったら、今の僕はいない……ごめん。ちょっと上手く 言えないや」
バクラは小さく首を横に振った。
獏良の言わんとすることが何となく伝わった。
自分の全てを受け入れる。
喜びも悲しみも苦しみも。
ありのままの自分で。
「キミは?キミはどうなの。過去を変えたいと思うの?」
バクラにとって、過去に起こったことは絶対的で、そう考えることは今までなかった。
ただ、何もなかったら、そこそこ波乱のある人生を送って、死んでいったのだろうなとは思う。
「考えたことねぇよ」
獏良は優しく微笑んで、頷いた。
その微笑みは以前の獏良のものと少しも変わらず、記憶が戻ったかのように感じられた。
「ただよ、お前の過去は……オレのことは、忘れて欲しくねぇよな」
ほとんど独り言のようにバクラが呟いた。
これは正直な気持ち。
全てを脱ぎさった、ただの人としての。
我儘と言ってしまえることだが、同時に限り無く純粋な気持ちだった。
カチリ
どこかで何かのスイッチが入った。
音はしないが、確かに、その何かは生を帯びた。
「ありがとう」
獏良は目を細めてバクラを見つめた。
「僕のことをそんなふうに言ってくれて嬉しいよ。キミのことは忘れないよ。記憶はね、簡単 になくなってしまうけど、とても大切な記憶ってある。自分の中にしまっておきたいと思う。それを、その記憶を、人に大事だと思われるほど嬉しいことはないよ」
獏良は瞬き、深い瞳の中に小さな光を湛える。
髪が優しく揺れた。
「とても大切なんだもん。忘れたくないよ。だから、お前に『必要ない』って言われるのが怖かっ た。なら自分から捨てる方が良い……覚えてても良いよね、バクラ?」
獏良の目尻はうっすらと濡れていた。
「世話のやけるヤツだな、お前は」
「臆病だもん。一つの言葉を言うのにどれだけかかるか分かる?」
バクラは肩をすくめた。
「分かるかよ」
けれど、その表情は柔らかい。
「答えは?」
「あ?」
「さっきの答え……」
あっさりと言ってしまうと勿体ない気がして、意地悪く獏良を見返した。
「バクラ……?」
答えがないことで獏良の表情に影が差す。
「忘れさすかよ」
少し乱暴に、腕で獏良の頭を引き寄せた。
「忘れたいと言ってもさせねぇ。しっかりお前のとぼけた頭に叩き込んでおけよ」
言って、にやりと唇の端を上げる。
「『とぼけた』は余計っ!」
獏良は目を拭い、バクラの頭をはたくように、手を扇いだ。
「……お前も、忘れないでね、僕のこと」
小さく、願うように、獏良の唇が動いた。
それを聞き逃さなかったバクラは、返事の代わりに獏良の頭の上に手を置いた。
二人の記憶、なくさないように、結び付ける。
これから増えていく分も落とさないようしっかりと。
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今の自分が大切で。
他の話を書いていたときに、別方向にも持っていけるな、やりたいなと思っていたものです。元はこちら。
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