「むー……?」
あれ、いつの間に寝てたんだろう。
もしかして、とんでもない時間だったりする?
慣れ親しんだ自分のベッドの感触に埋もれながら、拭えない違和感を覚える。
僕は上手く働いてくれない頭を起こし、目覚し時計を引っ掴んだ。
普段は目覚めることのないくらいの早朝だと、針が示していた。
昨日は早く寝ちゃったんだっけ?
昨日の記憶を辿っても、頭の中は真っ白で何も思い出せない。
何かをしようと部屋に入って、その「何か」をすっかり忘れてしまって頭を悩ますということは時々ある。
ぼんやりしすぎているのかなと落ち込むけど、ちょっとしたきっかけですぐに思い出せる。
若さってやつかな。
昨日食べた物や買った物を忘れるのはご愛嬌。
でも、今日の物忘れはちょっとおかしい。
思い出せそうだなという感じが全くない。
頭に引っ掛かるものが何もなくて、何もなかったんじゃないかって思える。
でも、昨日という日がないなんてことはない。
思い出そうとしても、出来ないことに苛立ちが募る。
吐き気がする。
僕は昨日という時を生きたっけ?
自分という存在が揺らいだ気がした。
こんなんじゃだめだ。
すぐに思い出せるよ。
きっかけばあれば、すぐに。
僕は文字通り頭を抱えて、ベッド上でいつまでも唸っていた。
一度気にしてしまうと、答えが出るまで考えてしまう。
それは知恵の実がなせる技なのか。
考えるのをやめようと思っても、いつの間にか机をとんとん叩いていたり、髪を掻かきむしっていたりする。
お陰で授業に身が入らない。
書き取りの多い授業は気が紛れるからましだけど。
自分の知らない自分という響きは怖いけど、なんだか少しわくわくもする。
多重存在とか鏡や夢の中の自分――空想の世界の話だ。
シナリオを考えている時みたいに心が弾む。
僕じゃない僕。
まだ会ったことのない……
知ってるじゃないか。
広がっていく夢の世界に自ら水を差す。
忘れたふりをしたって無駄だ。
事実なんだから、認めなよ。
冷静な自分が囁く。
いるだろう?もう一人の自分が。
自分と呼ぶのも不快だけれど。
すうっと熱が引き、冷酷なまでの理性が僕を覆う。
昨日は……多分、あいつがずっと……。
長時間乗っとられることはあまりないから除外して考えていたけど、ここまで思い出そうとして思い出せないなら、それしかない。
勝手に……。
これは言っても無駄なことだから、無理矢理自分を納得させる。 仕方がないこと。
それでも、拭いきれない不快感がいつまでも心の奥底に降り積もっていた。
「獏良くん、ハイ」
遊戯くんがにこやかに僕の目の前に握った手を差し出した。
何がなんだか分からずに手の平を出すと小銭を握らされた。
それほど多くない額の小銭が数枚。
「え……?」
お小遣いなんて言い出さないよね、もちろん。
目をぱちぱちと瞬くと、僕が理解をしていないと悟ってくれた。
「ほら、昨日、帰りに獏良くんが立て替えてくれた……」
昨日のあらましを丁寧に教えてくれる遊戯くん。
「ああ、そうだったね」
僕は思い出したかのように頷いて、小銭を財布に入れる。
何……ソレ。
知らない。
忘れてたよと軽く笑う裏で、内なる僕が冷たい瞳を開く。
何気ない会話についていけない自分にほとほと嫌気が差した。
みんなの会話を総合すると、昨日は帰りに道端の屋台で買い食いをして、ホビーショップでカードを物色して帰ったらしい。
昨日の僕は僕じゃないんだなんて勿論言えない。
ただ曖昧な顔をして、適当に相槌を打つだけ。
遊戯くんたちが話しているのは、僕であって僕じゃない。
分からない。
誰……?
みんなは誰のことを言ってるの?
僕は……
僕は、だれ?
「おい、どうした?」
僕は虚ろな瞳を声の主に向けた。
家に帰っても、ずっと動かないで考え事をしていた。
さすがに僕を取り巻く雰囲気がおかしいと気付いたらしい。
バクラが僕の顔を覗き込み、ぎょっと目を見開いた。
「なんだその目は……」
掠れた声をバクラが漏らす。
そんなに驚くことじゃないと思う。
真剣に考え込んでいたから、少しくらいは目が据わっていたかもしれないけど。
「どうしたんだよ、お前ッ!その目!」
両肩を乱暴に掴まれ、揺さぶられる。
うるさいんだけど。
自分ではそんなつもりはなかったけど、瞳は僕の気持ちを素直に代弁していたらしい。
バクラが驚いて手を放した。
「鏡で自分の顔を見てみろ」
「なんで……?」
自分の顔なんて鏡で毎日見てるし、気に止めることじゃない。
それでもバクラが勧めるので、洗面所の鏡の前に立った。
「……ぁ」
そこに映った僕の姿は……
なんて暗い瞳をしてるんだろう。
生気が全くない。
見慣れた自分の顔なのに、何を考えているか分からない。
嘲笑っているのか、怒っているのか。
時々バクラの目を怖いと思うけど、ある点ではそれ以上だ。
まさに呪うような瞳だった。
鏡に映ってるのは、紛れもない僕自身なのに。
鏡の中の僕の顔が歪む。
笑うように。
泣くように。
「ふふっ……」
すごく醜い。
それ以上自分を見ていられなくて鏡に背を向ける。
「熱でもあるんじゃないのか」
バクラはいつになく真剣な顔をしていた。
心配なんかして、どうするの。
それとも、気にしているのは僕のことじゃないのかな。
「熱なんてないよ。ちょっと考え事をしてただけ」
僕の口から出た声は思ったよりも冷たい。
気にする余裕も義理もないんだから仕方がない。
バクラは眉をつり上げるが、声を荒げたりはしなかった。
「そんなカオして考え事とはね」
まるで他人事のような言い方が癪に障った。
バクラが分からないのは当然だけど。
「誰かさんが勝手に僕の身体を使ったからね」
僕の言葉にバクラは拍子抜けした顔をした。
「ああ?なんでそんなのが関係あるんだよ」
バクラが僕の身体を無断で使う。
後からそれに気付いた僕は、またかと溜息をついて黙認する。
それが今までだった。
僕もバクラも当たり前だった。
「そんなの?」
バクラのあまりにも軽い言葉に目を剥く。
「僕に成り済まして、遊戯くんたちと勝手に話して……そんなに簡単に僕の代わりになれるなら……僕は……僕なんて要らないじゃないかぁ!」
自分の気持ちを上手く口に出来たのかは分からない。
ただ、自分の感情を力任せにぶつけただけ。
ぜえぜえと荒く呼吸をして、酸素を肺に送り込む。
息巻く僕に対して、バクラはやや困惑気味だ。
「ちょっと待て、何言ってんだよ。お前に成り済ますっていったって、大したレベルじゃないだ ろうが。それこそ成り代わるなんて不可能だろ」
確かに、一人の人間にずっとなりきるなんて不可能だ。
でも、短時間とはいえ、バクラは僕になることが出来た。
僕にはそれが問題なんだ。
何の違和感なく、簡単に座り込めてしまう。
ある日、急に僕じゃなくなっても、誰も気付かないかもしれない。
自分の存在が物凄く軽いものに思えてしまった。
それは、生きているものにとって致命的なこと。
「僕の身体を使うのは、お前の勝手かもしれないけど……僕の居場所を取らないでよ……」
目の周りが熱い。
ああ、僕は泣きそうなんだと思った。
やっと見つけた、大切な自分の居場所を取られたくない。
僕の代わりはいくらでもいるなんて、思いたくないんだ。
ここを失ったら、次は何処へ行ったらいいの?
かたかたと震える歯を押さえるために唇を強く結んだ。
「そんなことを考えていたのか」
バクラの目は優しさとさえも言えるような穏やかな光を湛えていた。
鏡には決して映らないその姿に僕は見入った。
「安心しろよ。姿を拝借することはあっても、お前の居場所なんか取りゃあしないぜ。たとえオレが何をしようとも、お前はお前だ。変わらない」
あまりにも迷いなく言うものだから、返す言葉が見つからなかった。
どうして。
そんなに自信を持って言えるの?
馬鹿みたいに口を開いて、バクラを見つめることしか出来なかった。
僕の様子にバクラは口元に笑みを浮かべた。
いつもの意地の悪い笑いじゃない。
「オレの場所が決まってるからな」
そう言うと、人差し指でとんと僕の胸を押した。
「え……」
「お前が譲っても、お前になる気なんてないぜ」
頭がこんがらがって、理解するのが大変だけど、つまり……何があっても、僕の中に居座るつもりだっていうこと?
「ちょっとワガママじゃない、それって……バカ」
唇が震える。
僕は怖がっていたのに。
自分が消されてしまうんじゃないかって。
要らないんじゃないかって。
さっきまで我慢してたものと、いま込み上げてきたものが一緒になって、全て押し出すようにぼろっと両目から涙が溢れ出た。
僕を一番に必要としていたのは、他でもない目の前にいるコイツだなんて。
本当にバカ……。
手の甲で目の端を拭った。
「お前が言ってるのはさ。……僕の身体だから?」
自分でもおかしなことを聞いてるなって思うけど、聞かずにはいられない。
それほど不安で、今の僕は情けないんだ。
「本当にそう思ってるのか?」
バクラが僕の肩を抱えるように腕を回す。
息がかかりそうなくらい僕たちの距離が縮まった。
僕は答えの代わりに、バクラの額にこつんと額をぶつけた。
お前がお前であることは、きっと僕が僕であることの証し。
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バクラにとって、獏良了という存在が大きなものでありますように。