ばかうけ

暗闇の中から何かが迫ってくる。
周りの物の輪郭も捉えられないほどの暗闇なのに、身の危険だけはしっかりと感じられた。
怖い。殺される。
根拠はないが、心の底から湧き上がる恐怖心。
考えるよりも先に逃げ出したいという意識が先行する。
――早く逃げなきゃ。

無我夢中で駆け出した……つもりだったが、全くその場から動けなかった。
手足を一生懸命に動かしているはずなのに、身体がぐにゃぐにゃになってしまったように思うように進まないのだ。
何が怖いのか、何がやって来るか、なんて考える隙もなかった。
ただ、その場でじたばた藻掻いて、1ミリでも前へ進むことだけに集中していた。
上手く走れないと焦ると、今度は上手く息もできなくなってしまった。
酸素を身体に取り入れようと、ぱくぱくと口を開けて息を吸い込んでも肺に何も満たされない。
恐怖と苦痛がごちゃ混ぜになりパニックを起こしかけたところで、背中まで何かが迫っていることに気づいた。

――もうダメだ……。

全身全霊を持って絶叫した――。


はっと目を開けた。
視界に映ったのは真っ白な天井。
獏良は硬直したまま、耳を澄ませた。
カチカチカチカチ
静寂の中で時計の音だけが響く。
目だけを動かし、音の先にある時計を確認する。
針は2時を指していた。
そこでようやく、獏良は自分の状況を理解した。

――夢か。

安堵のため息が出る。
先程まで逃げ惑っていたのは夢の中だったのだ。
全身の力が抜け、優しく毛布に包まれている自分を認識した。
最近夢見が悪い気がする。
襲われたり、逃げ続けていたり、散々な目に遭っている。
詳しい内容は少しすると忘れてしまうのだが、気分の悪さだけが残ってしまう。
疲れているのか、何か自分でも気がつかないストレスでも感じているのか、心理学に詳しければ解決できるのだろうか。
夢診断でも調べてみようかと頭を掠めた程度で、実際には何もしなかった。
所詮、夢は夢なのだから。
身体に冷たい汗がまとわりついていて気持ち悪い。
顔の汗を手の甲で拭おうとすると、目の周りも濡れていることに気づいた。
たかが夢で泣いていたなんてみっともない話ではないか。
中途半端な時間に起きてしまったし、逆に疲れてしまったようだし、とんでもなく損をしてしまった気がする。
誰かが傍にいれば、起こしてもらえたかもしれない。
しかし、一人暮らしの獏良には、そんな「誰か」はいなかった。
正確には、「誰か」はいないが、一人ではない。
胸元に光るリングをちらりと見て、もう一度ため息をつく。
「こういう時くらい、助けてくれてもいいのに……」
恨み言を呟いて、寝返りを打った。

――もう一度、眠れるかな。

今度はいい夢を見られますようにと願いながら目を瞑った。

夢には自覚できる時とできない時がある。
自覚できた時は、人によっては思い通りにコントロールできるという。
残念ながら獏良は、一度もそんな経験はなかった。
気づいた時には自室ではなく、どこか薄暗い別の部屋に立っていた。
今度は夢だとすぐに気づいたが、気づいたところでどうしようもない。
自分の暮らしているマンションの部屋ではない。
壁越しに人の声が聞こえる。
別室に誰かいるのだろうか。
吸い寄せられるように、声のする方へ近づいていった。
部屋を出て廊下を進むと、一枚の扉があった。
どうやら、この扉の向こうから声がするらしい。
ガラスが嵌め込まれた扉なので、外から中の様子が分かる。
そっと中を覗いた。
その部屋はリビングになっていた。
最初の部屋も廊下も妙に薄暗くて気づかなかったが、獏良の実家に似ている。
いや、もしかしたら、実家そのものなのかしれない。
夢なのだから、どこだっておかしくないはず。
では、この声の持ち主は……。
リビングでは二つのシルエットが蠢いていた。
窓を締め切っているようでもないのに、やはり部屋全体は影を落としたように暗かった。
それでも、顔貌は問題なく見えそうなのに、シルエットの判別は出来ない。
人の形をした影が動いているようにしか見えない。
扉越しに聞くとただの話し声ではなく、常軌を逸した怒鳴り合いだった。
何を言っているかは分からない。
獣の咆哮のように、ただ叩きつけ合うような会話の応酬。
しかし、獏良にはその声で誰だか分かってしまった。
……間違いなく両親だ。
何度か激しい言い争いは聞いたことはある。
自分が原因だったこともある。
こんなに酷い言い争いは記憶にない。
心の底にある両親のイメージなのだろうか。
そんなもの望んではいない。
見たくも聞きたくもない。
扉から目を離したいと思うが、視線を逸らした瞬間に気づかれてしまう気がして動けない。
今にも暴れだしそうなくらい怒気を孕んだ声に身が竦む。
こうしていたって、いつかは部屋の中から飛び出して来そうだ。
あんなものは両親ではない。
自分の呼吸と心臓の鼓動がうるさく感じた時、不意に腕を引かれた。
あまりに驚いたので声は出なかった。
引かれるままに身体が反転すると、背後には人影があった。
セーラー服から伸びたか細い手足、獏良に似た面影、最後に会ったままの姿……。

「お兄ちゃん」

――妹の天音だった。
天音の姿は家の中やシルエットたちとは違い、はっきりと存在感を示していた。
記憶の中の天音は柔らかい笑顔を浮かべる優しい女の子だった。
そこで時は止まっている。
天音は獏良の腕を引いて、リビングから離れる。
廊下の先へと進む。
夢の中で最愛の妹に会えるなんて。
話したいことが沢山ある。
何を話しかけたらいいか分からなくて、結局言葉を飲み込んでしまった。
薄暗い廊下を突き進む二人。
こんなに実家の廊下は長くなかったはず。
天音は何も言わず、足を止めない。
悪夢の続きで恐ろしい所へ連れて行かれてしまうのではという考えがよぎるが、温かい手の感触にそれを否定する。
夢の中なのに、こんなにはっきりと温かく感じることは今までなかった。
この温かさは信じられる。
唐突に廊下を抜けた。
抜けたと思った瞬間には、いつの間にか部屋の真ん中に立っていた。
「ここは……?」
小さい部屋だが、ごちゃごちゃと物が多い。
膝下ほどの高さしかない小さなベッド、床に散らばった玩具、大きな熊のぬいぐるみ、絵本の詰まった本棚。
かちりと失われたピースが嵌ったような感覚。
獏良が幼い頃過ごした子供部屋だ。
どんな部屋かすっかり忘れてしまっていたが、見た瞬間に思い出した。
優しくて、負の感情など一切ない、希望の詰まった部屋。
天音がこちらを向いてじっと見つめている。

――やっぱり、助けてくれたんだ。

「座ろう、お兄ちゃん」
そう言って天音は子供用のベッドに腰掛ける。
促されるままに獏良も横に並ぶ。
低くて座りづらいが、ないよりましだ。
こてんと天音が獏良の方に頭を預けてくる。
「ありがとう、天音」
やっとのことで出した言葉がそれだった。
久々に会った妹に気の利いた言葉なんて思い浮かばない。
「助けてくれたんだね」
妹の体温を半身に感じながら語りかける。
「そうだよ」
天音が身体をそのまま倒し、押されるようにして獏良はベッドの上に上半身だけ横たわった。
獏良の胸の上に覆い被さるような体勢になった天音は獏良を見上げた。
天音はずっと落ち着いた表情をしていた。
二人とも子供だったから、こんな静かな時を過ごしたことはなかった。
「ここなら怖いものは来ないよ」
夢でも、もう一度天音に会えて嬉しい。
出来るなら、昔のように笑って欲しい。
優しく天音の頭を撫でる。
すると、にんまりと天音は笑った。
「そっか……」
心地良い体温に浸ってしまいそうな自分を抑え、勢い良く獏良は起き上がった。
天音は獏良の上から落ち、ベッドの上に転がる。
「助けてくれたのは有難いんだけど、その姿はやめてくれない?」
一瞬だけきょとんとした顔を見せると、天音は後ろ頭を掻いた。
ベッドの上で片足を立てて座り直した。短いスカートから下着が見えそうなくらい乱暴な座り方だ。
「おっかしいなァ」
「天音はあんな笑い方はしないよ」
「宿主の記憶から引っ張り出してきたんだぜ」
そう言って肩を竦めるその姿はもはや妹には全く見えなかった。
中身は全くの別人、獏良の中に潜むもう一つの人格。
「どうやったのさ」
心の中にどんどん入ってくる奴ではあったが、夢の中まで侵入してくるとは思わなかった。
天音のままの姿で得意げににやりと笑う。獏良としてはやめて欲しい。
「夢は心の底と繋がっているんだぜ。俺様にかかったらちょろいもんだ」
「はい、そうですか」
バクラにかかれば、プライバシーの欠片もない。
「なんだってこんなこと……」
「お前が言ったんだぜ。助けろって」
思い返してみれば、二度寝をする前にそんなことを言った気がする。
ただの愚痴のつもりだったが。
「それで?」
呆気にとられてしまう。
悪夢は御免だったが、夢の中まで助けてくれなんて言っていない。
「おいおい、俺様を誰だと思ってやがる。これでも宿主思いなんだぜ。アシストは当然だろ」
ヒヒヒと下品に笑う姿にどこまで本気なのか分からない。
獏良が呆れていると、一転つまらなさそうな表情になり、
「まったく……気づかなきゃ幸せだっただろうに」

――――もしかして、わざわざ天音の姿をしてたのは。

獏良が聞く前に天音の姿をしたバクラはベッドから降りた。
ベッドから離れる間に、獏良の姿を借りた元の容姿に戻った。
「宿主の体調管理も俺様の仕事だっての。もう、夢見が悪くなるようなことはないから安心しな」
「バクラ、ありがと」
今度は本人に向かって礼を言うと、ふいとバクラは視線を逸らした。
「邪魔者は退散するか」
空中にふわりと飛び上がり、そのまま空気に溶けるようにして消えた。
それを見届け、獏良は今一度小さなベッドに横になる。

――あいつなりに気を遣ったのかなあ。

窮屈だけど居心地のいい部屋。悪夢なんてもう見ないだろう。
夢の中で寝るというのも変な話だが、獏良は自然と目を瞑った。
「おやすみ」
届くかどうかは分からない。
もう一人に向かって囁いた。

翌日、久々に獏良は朝から明るい表情で登校した。
友人たちから何か良いことがあったか聞かれたが、「いい夢を見ただけだよ」と答えたのだった。

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意図せずに、以前、小話(拍手倉庫にあります)で書いたもののリメイクになりました。

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