誰にだって気が滅入る時はある。
今日だって獏良はそれなりに気分が良いはずだった。
友人とのゲーム勝負に勝ったとか、豚肉が安く買えたとか他愛のないことだったけれど、帰宅の足取りは軽やかだった。
それが自宅のポストを開けた瞬間にゼロになってしまうなんて、それまでの獏良には予想もしないことだった。
簡素な白い封筒。
目の前にそれが現れた時、自然と溜息が出た。
高校生で独り暮らしをしている獏良に手紙なんてほとんど来ることはない。
ポストに入っているのはほとんどがチラシだ。
それでも、溜めないように毎日帰宅時にはポストをチェックするのが習慣になっていた。
獏良には封筒を見ただけで送り主も内容も想像がついてしまっていた。
見なかったことに出来るはずもなく、仕方なしにのろのろと封筒を掴んで自宅へと持ち帰ることにした。
エレベーターの中で念のために封筒を裏返して送り主を確認する。
思っていた通りの名前が記載されていた。
――前はいつ来たっけ、母さんの手紙。
自宅に戻り、リビングで封筒を開封した。
無地の便箋が二枚。
丁寧で細い字が等間隔で並んでいる。
内容は挨拶文から始まり、続いて息子の状況を尋ねる短い文章、そして後は近況報告だった。
近況報告といっても、獏良の父はいま仕事で××に行っているとか、親戚が就職したとか事実が書き並べてあるだけだ。
書き手の心情はごっそりと抜け落ちていて読み取ることは出来なかった。
獏良が一人暮らしをするようになってから、定期的に母親から手紙が来るようになった。
内容は今までほとんど変わっていない。
読みたくはないが、無視するわけにもいかないのでいつも気が滅入る。
もちろん、獏良も手紙を返している。
何を書いたらいいか困るので、成績表が出たときに出すことが多い。
成績を親に伝えるのは子供の義務だと思うから。
――義務。
母親からの手紙も獏良の手紙もそれの塊だった。
なんてよそよそしい手紙。
きっと手紙を読むときはお互いに同じ気持ちに違いない。
読み終わって獏良は手紙をテーブルの上に置いた。
内容もそうだが、返信しないといけないと思うと益々気が重い。
――前回はいつ送ったっけ?
童実野高校に転入してすぐだったような気がした。
本当なら、友人が出来たことや身の回りで昏睡事件がもう起きないことを書くべきだったのだろうが……。
何を書いても白々しくなってしまう気がして、新しい学校にも慣れましたという文だけに留めたのだった。
実家を出る前の冷えきった空気を思い出すと上手く伝えられる気もしなかった。
かといって、直接会いに行くほど吹っ切れてもいない。
――どうしようか……。
「相変わらず、お前の母親は神経質っぽいな」
どうやら、手紙を読まれていたらしい。
読まれて困ることは書かれていないが、諸悪の根元に口を出されると少なからずカチンとくる。
「お前が言うな」
獏良の母親は確かに昔から神経質だった。
とはいっても、几帳面でしっかり者という前向きな意味でだ。
家庭を支えるのに適した性格で、繊細な部分はあるが獏良たちにとっては良き母親だったのだ。
それが普通の家庭ではなくなった時に全てが悪い方へ転がってしまった。
責任感の強い母親は獏良より早くポッキリと折れてしまったのだ。
思い出せる一番新しい母親の思い出はこめかみに手を当てて眉間に皺を寄せている姿だ。
しょっちゅう具合が悪いといって寝込んでいた。
自分のせいだと分かっていたので声をかけるわけにもいかず、獏良は黙って登校する毎日だった。
あれから家族の時間は止まったままだ。
「お前が書いてくれたらいいのになあ」
せめてもの仕返し。
また返事を悩まなくてはいけないから嫌味の一つも言いたくなる。
いつもは悩みに悩んでたっぷり一週間近くはかけて返事を書き上げている。
「あ゛?」
もちろん期待なんてしていない。
返事を書くためにチラシの裏にでも下書きを始めなくては。
まずは、最近の天気の話から――。
何パターンか書き捨ててみて無難なものを選ぶのだ。
――すっかり寒くなってきましたね。
下書きというよりメモに近い。
主文に辿り着くにはいつになることやら。
「そんな面倒くせぇモン、俺様が書くわけねぇだろ」
「うーん、そうだよね」
大袈裟に肩を竦める諸悪の根源に苦笑いをする。
バクラにとってはこんな手紙などどうでもいいことで意味なんて見いだせないのだろう。
「別に手伝って欲しいとも、出来るとも思ってないし」
――天候が不安定ですが、体調を崩したりしてないでしょうか。
赤の他人に書く手紙よりもよほど難しい。
「お前ならなんて書くか興味はあるけどね」
――父さんの仕事も順調そうで良かったです。
顔を上げずにペンを走らせる。
「書かねぇよ」
テーブルの上にもう一組の手が乗せられる。
「こんなウソだらけの手紙なんざ書いても意味ねぇだろ」
ピタリと獏良の手が止まる。
無造作に書き並べられた目の前の文章が揺らいだ。
「ウソ、だって?」
自分の感情が何かも分からずに呆然と顔を上げた。
バクラが勝ち誇ったように目の前で笑っていた。
「出さない方がマシだってんだよ」
手紙を出すことは義務なのだから、出さないという選択肢はないのに目の前のバクラはそれを言う。
挑発だということは分かっているのに言い返せない。
死角から殴られたようだった。
――書かない?出さない方がマシ?
苦労してきたものを全否定されたら何も残らないではないか。
「何言ってんの。こういうのは書く書かないの問題じゃないんだよ」
言葉でだけは冷静さを取り繕って言い返した。
それでもバクラはせせら笑った。
「お前よぉ、お利口なんだからちっとは考えてみろよ」
言いながらもバクラは母親からの手紙を指差した。
「これはウソだろ。これもウソ」
最初から順番に指で辿っていく。
獏良はそれを目で追った。
読んだはずなのに内容が入ってこない。
息子を気遣う文章も近況報告も。
「で、お前のもウソ」
今度はたった今書いた下書きを指差した。
「自分でも分からないのかよ。ウソを送りあったって時間の無駄だろ」
全ての文章を差し終えてバクラは高笑いをする。
「これは……社交辞令だから」
獏良の言葉にバクラはニイッと口を歪めた。
ああ、しまった認めてしまった。目の前のバクラが正しいと。
苦し紛れの言い訳のつもりが答えを言ってしまった。
「しょうがないじゃないか、出さないわけにもいかないし」
こうなると後に出てくるのは全て自己弁護の言葉だけだ。
「書かないなんて、出来るわけないよ」
今まで正しいと思って書き連ねた文字が崩れていった。
「どうすればいいのさ……」
ぼんやりとバクラを見上げ、消え入るような声で言った。
もう何も書けない。
ウソなんて言われたら。
問われたバクラはガシガシと頭を掻いた。獏良が言い返してこないので気を削がれてしまったのだ。
「お前は母親に似て面倒なヤツだが、俺様と違っていい子チャンなんだから書けなきゃ書けないでいいんじゃねぇの。それでキレられるような素行じゃないだろ」
「暴論だよ、それ。……ま、お前みたいな奴だったら、首根っこ掴まれて終わりだね」
自嘲気味に獏良が笑った。
もう面倒になったのか、バクラは後ろに下がると、
「白紙でも送りつけてやれよ」
投げやりに言って消えた。
「適当だなあ」
改めて自分の書いた下書きに目を落とすと、とても母親に送れるようなものではない気がした。
「まあ、白紙はないけどさ」
ぐしゃりと下書きのチラシを握り潰した。
それから二日経って、完成した封筒を持って登校がてら郵便ポストに向かった。
「騒いだ割に結局出すんじゃねぇか」
「義務なので」
投函口に躊躇いなく差し入れる。
「でも、ウソは書いてないからね」
前略 お手紙ありがとうございます。お元気そうで何よりです。
こちらは新しい学校に慣れました。もう、転校する必要もないと思います。
僕はもう大丈夫なので、父さんも母さんも身体に気をつけて下さい。 草々
短い手紙に友人たちと撮った写真を添えて。
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何かと構いたがりなバクラさん。