「バクラには怖いものないの?」
「あ?」
ベッドの上でごろごろと寛いでいた休日の一時、獏良が身を乗り出して急にバクラに尋ねた。
その瞳は好奇心でキラキラと輝いている。
それまでに獏良が読んでいた雑誌に目を走らせると、夏の夜の怪談特集という文字がバクラの目に入った。
急に妙なことを言い出したことに合点がいく。
「オレ様を驚かせようってコトか?」
目の前の獏良の鼻を人差し指でちょんと押してやった。
「ちがうよ!怖がってる姿とか想像つかなくて、気になっただけ」
獏良は鼻を押さえて、むうと口を尖らせた。
子供扱いされたように感じたらしい。
「怖いものねえ……」
バクラは視線を上に向けて考えるような仕草をする。
そして、いま思いついたように、ポンと手を打って答えた。
「ファンブル」
「ゲームの話じゃないよ!」
すかさず、獏良が頬を膨らませて言い返した。
「お、いい反応」
バクラはへらへらと笑いながら身体を前後に揺らす。
この様子だと、いくら聞いても口を割ることはしないだろう。
獏良は暫くの間、バクラをじとっと眺めていた。
やがて、ため息をついて後ろに倒れた。
ぼふんと柔らかいベッドが獏良の身体を受け止める。
「人に尋ねる前には、まず自分から言うもんじゃねえの?」
対するバクラは壁に寄りかかり、手を頭の後ろで組んだ。
「僕はいっぱいありすぎてね。分かんないや」
天井を見つめて独り言のように獏良が洩らした。
「なんだそれ」
バクラはそれに呆れ顔で首を捻った。
「バクラには分からないかもね」
ごろんと横向きに寝返りをして、話を打ち切るように獏良は目を瞑った。
それで今日の二人の会話はおしまい。
あとは、各々の心の部屋に閉じ籠ってお互いに干渉しない。
それが、二心同体である二人が引いた心の境界線だった。
怖いもの。
バクラははぐらかしたが、怖いものが全くないとは言えなかった。
いや、かつてはあったと言った方がよいだろう。
人間であった記憶の中には、いくつか恐ろしいと感じることはあったはずだ。
一部の記憶が曖昧なことを差し引いても、今のバクラにはどれもピンと来ない。
あまりに昔の自分と今の自分は、かけ離れていて実感がない。
「怖いものねえ……」
バクラは目的のために前だけを向いて存在している。
後のための布石を打っているし、最悪の事態も想定して動いているので、怖いと感じることはまずなかった。
いや、怖いということが負の感情の一つであることを意識してみれば、ないこともなかった。
計画を盤上でひっくり返されることに懸念を抱くなら、それは恐怖なのではないか。
ニヤリとバクラは笑った。
思い出されるのは、初めてもう一人の遊戯と対峙した時だ。
準備に準備を重ねて挑んだところ、まさに懐からひっくり返された。
その時からバクラの獏良への評価は、「一筋縄ではいかない宿主様」だった。
自分の手籠めに出来たかと思えば、するりと手から抜けていってしまう不思議な存在だ。
掴み所がなくて、つい追いかけてしまう。
数え切れない年月を重ねてきたバクラでも飽きない存在だった。
先ほどの獏良のむくれた顔を思い出し、忍び笑いをした。
「何を笑っているの?」
唐突に背後から声がかかった。
バクラより少し高い聞き覚えのある声。
「宿主」
振り返ると、暗い空間の中に獏良が微笑を浮かべて立っている。
「ね、教えて」
バクラに向かって前屈みになり、首を傾げた。
少し開いた唇と艶っぽい目つきが、何とも言えない色気を帯びている。
「……さあ、なんでだろうな」
ぴたりと笑うのを止め、バクラは目の前の獏良をまばたきもせずに凝視をした。
「意地悪しないで教えてよ」
くすくすと笑いながら獏良はバクラの胸の上に手を置き、そっと力を入れることで押し倒した。
抵抗をする様子を少しも見せずに、バクラはされるがままになる。
いとも簡単に仰向けに倒れ、視線を上に向けた。
「ねえ……」
獏良はバクラに馬乗りになり、息がかかるほど顔を近づけた。
はらりと髪が肩から滑り落ちる。
そんな獏良の一挙一動には気にも留めずに、バクラの視線は上を向いたままで動かない。
「焦らさないで」
ゆっくりと獏良の柔らかそう唇が近づく。
バクラは無造作にその顔に手を伸ばすと、
「……いっ!」
髪をあらん限りの力でいっぱい引っ張った。
呻く獏良をよそに、上半身を起こす。
「楽しいコトしてくれるのかと思えば、大したことねえじゃねェか」
バクラは酷くつまらなそうな顔をしていた。
まるで、贈り物をもらって開けてみたら、参考書だったというくらいの素っ気ない表情だ。
「痛いよ……痛い……」
聞く者の胸を搔き乱すほどの悲痛な声もバクラには届かない。
「もっとイイ声で鳴けよォ」
獏良の鼻先で三日月のように口を歪ませた。
反対に目は見開かれ、射殺すような視線を獏良に向けていた。
もう片方の手で顎を割らんばかりの力で掴む。
「ぐっ」
獏良の手が助けを求めるようにバタバタとバクラの腹の上で踊る。
「ホント、つまんねえよ」
さらにグッと力を入れると、耳をつんざくような悲鳴を上げて獏良の身体が崩されった。
呆気ない最後に、バクラは舌打ちをした。
その場でむくりと立ち上がり、衣服の乱れを直す。
「もっとサービスしろっての」
やれやれと肩の力を抜いたところで、ぎいとドアの開く音が聞こえた。
暗い部屋の中に、微かに光が差し込む。
「いたぁ」
随分と慌てた様子で「獏良」が部屋に飛び込んできた。
「どうした?」
先ほどの出来事を微塵にも感じさせないほど、柔らかい口調でバクラは声をかけた。
「ちゃんといて良かったー」
獏良はそのままの勢いでバクラの胸にすがりついてきた。
それをバクラはふわりと受け止める。
「変なことになったよね?ごめん、僕のせいだ。変なこと聞いたから……」
あたふたと言葉を続ける獏良に苦笑が漏れる。
後頭部をやんわりと撫でてやった。
「感受性豊かなのは褒めてやるが、オレ様を巻き込むのはカンベンな」
二人が最後に交わしたのは、「怖いものは何か」という会話だった。
心の部屋で不条理なことが起これば、それは心境の変化が深く関わっていることだ。
しかも、二人は心の部屋が隣り合わせなので、お互いが影響し合う。
考え込んでいた獏良の影響をもろに受けてしまったのだ。
ただし、バクラも問いかけに考えを巡らせていたのだから、獏良だけの所為とは言えない。
わざわざ正してやる義務はないが。
「怖いもの見ちゃった?」
「見た見た。すっげェ怖かった」
一瞬、獏良の顔が興味で輝くが、罪悪感でバクラを問い詰めることは出来なかった。
「あらゆる意味でホンモノには足元にも及ばなかったけどなー」
妙に艶めかしかった幻影の獏良の姿を思い出した。
バクラにとって、獏良はもっと突拍子もない人間だ。
一人で思い出し笑いを浮かべる。
「さっ、今日は変な感じだから、『外』に出よう」
獏良はバクラの手を掴み、心の扉へ向かおうとした。
「そういえば、お前も見たんだろ?」
びくんと獏良の背中が震えた。
「怖いモン見たんじゃねえの?色々あるとか言ってただろ」
ぎぎぎと首だけを捩じるように振り向き、
「……笑わない?」
頬を赤くして声をぼそりと小さく出した。
こくりと深くバクラが頷く。
少しの間、踏ん切りがつかずに口をもごもごと動かしていたが、
「あの……」
やがて、観念したように口を開いた。
「カラシ入りの……シュークリーム……」
心の部屋中にバクラの馬鹿笑いが響き渡った。
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「対応の違い」。