風が吹きすさぶ校舎の屋上で、獏良は長い髪を靡かせて立っていた。
地上からは部活に励む生徒たちの声が聞こえてくる。
同じ学校にいるはずなのに、どこか遠い世界のようだった。
金網をガシャンと掴む。
空には雲がほとんどなく、憎らしいほど青かった。
この金網がなければ、獏良はもっと先へ足を踏み出していただろう。
自分がここに立っているという現実感はなく、あるのはふわふわとした離人感だけだった。
最近はこんなふうに人気のないところで、ぼーっと突っ立っていることが多くなっていた。
例えば、橋の上で。
例えば、歩道の端で。
川や走行中の車をぼんやりと眺めていると、呼ばれているような気がした。
ふらふらとそちらに行きそうになる。
獏良は向こうの方から目の前に迫ってくるのだと思っていた。
決して自殺願望があるわけではない。
虚ろな目で地上を見つめる。
ゆらゆらと蜃気楼のように地面が揺れていた。
じっと見つめていると、吸い込まれそうだった。
でも、ダメなのだ。
いつも、何かがその夢現な空間から獏良を引っ張り出してしまう。
いつも気づくと、川や道路から遠ざかっている。
死にたいわけじゃない。
でも、何かの思い通りになりたいわけでもない。
『あいつは呪われている』
そう言われるのは、何度目だろうか。
始めは必死に否定していたが、もうそんな気力はない。
確かに、獏良に関わる者たちは不幸な目に遭っているのだ。
面と向かって言われるならまだ良かった。
段々と噂が広まるうちに、それはひそひそ話に変わっていった。
どこで何を言われているか分からない。だから、一人でいた方がましだ。
元々、目立ちたがるタイプではなかった獏良は、ますます内に引きこもるようになった。
きっと、自分は疫病神か死神あたりに取り憑かれているのだろうと一人で納得していた。
不幸を振り撒くくらいなら、自分が消えた方がマシ。
それはやはり、緩やかな自殺願望に違いなかった。
でも、本当は死にたいのではない。疫病神や死神なんかの思い通りになりたくないと、ただ思っているだけなのだ。
ふうと、長く重い息を吐く。
その瞬間、景色が揺らめいた。
獏良が目眩かと額に手を当てた途端には視界が元に戻っていた。
金網を触っていたはずだが、数歩分の距離だけ金網から遠ざかっている。
夢遊病にでもかかってしまっているのだろうか。
いつもこうだ。自分の意思ではない意思が働いているようだった。
実際に疫病神などいるはずもないだろうに。
気持ち悪さを感じて、獏良は金網に背を向けた。
もしかしたら、また転校するはめになるかもしれない。
根拠はないが、漠然とそう思った。
獏良は校舎の中に戻るために重い扉を開けた。
一歩建物の中に入ってしまえば安全だ。
誰しもそう思うだろう。
ゆっくりと扉を閉めた。
忘れずにサムターンを回して施錠する。
そのまま、一歩下がる。
続いて、二歩、三歩――。
そこにはもう何もない。背後にある階段から足を踏み外した。
がくんと身体が傾く。
階段から仰向けに落ちる。
そこからは、スローモーションのようだった。
まるで空を飛ぶようにふわりと身体が浮いた気がした。
白い髪がふわりと舞い、制服から身に付けているリングが飛び出した。
が、それも一瞬で、あとは重力に従って容赦なく階段の下へ落下する。
「見えない手」が反射的に獏良を掴もうと手を伸ばす。
しかし、するりと身体は抜けていってしまう。
当たり前だ。肉体を持たない者が現実世界に干渉を出来るわけがない。
獏良は口元に笑みを浮かべた。
死にたい訳じゃない。
これは他の誰でもない自分の意思だ。
獏良は声なく口を動かした。
そこにいるのなら、見えない死神に向かって。
『 ざ ま あ み ろ 』
激しい音を立てて階段を転がり、階下に身体を叩きつけられた。
一瞬の静寂。
それから、人から人へ感染するように叫び声が広がった。
「先生」「救急車」「男子生徒が」
大勢の人々が右往左往している中、階段の上で呆然と見下ろす「視線」があった。
階下には、赤い血だまりに花が咲くように白い髪が広がっている。
咄嗟に腕を掴もうとしてしまった。
例え、身体の操縦権を奪ったとしても、間に合わなかっただろう。
それほど、獏良の動きは自然だった。まるで当たり前のように宙へ身を投げ出したのだ。
こんなことは初めてだった。
ぞっと身体の芯まで冷えた。
いま、獏良と入れ替わったところで意味がない。
このまま救助を待つ方が早い。
それは、久方ぶりの恐怖だった。
何も手を出せないなんて。
震える手で顔を覆い、乱れる呼吸を整えようとした。
――絶対に失ってはならない。
「視線」は、運び出されようとしている獏良の中に消えていった。
獏良が目を開けると、白い天井が視界に入ってきた。
慌ただしく看護師が獏良の周りを動き回っている。
――生きてた。
何の感情もなく、そう理解した。
あれから、すぐに病院へ搬送されたらしい。
頭から出血はしていたが、奇跡的に助かったのだ。
怪我をした場所が場所だけに精密検査を何回か受けたが、それも問題はなかった。
頭は打ったが、それほど高い階段ではなかったし、床に辿り着く前にあちこちぶつけたことが、逆に致命的な怪我をせずに済んだらしい。
しかし、打ち所が悪ければ、死んでいただろう。
身体は傷だらけだったが、それも全て軽傷だった。
我ながら悪運が強いんだなと、他人事のように獏良は思った。
病院では、なかなか両親と連絡がつかないことの方が問題のようだった。
絶対安静ということで獏良には声はかからないが、代わりに付き合いの短い担任が呼び出されているらしい。
少しだけ怪我について聞かれたが、「立ち眩みがして、誤って足を踏み外しました」と素知らぬ顔で答えた。
誰にも見られてないようだし、それで押し通してしまえば何事もなく終わりそうだった。
ベッドの上で天井を見つめる。
身体があちこち痛い。
しかし、前よりも頭はすっきりと冴えていた。
痛みが、現実を――自分が生きていることを教えてくれている。
――今度はこんなこと、しないようにしないと。
ふと、あることに気づいて、きょろりと辺りを見回した。
机の上で見慣れたリングが光っている。
ホッと安堵の表情を浮かべ、獏良はそれに手を伸ばした。
しゃらんと首からリングをかける。
これは獏良のお守りなのだ。昔から付けている。悪いものから身を守ってくれるお守り――。
リングが胸に戻ってくると、獏良は満足をして瞳を閉じた。
すうすうと穏やかな寝息を立て始める。
獏良の枕元に立つ人影は、その寝顔を静かに見下ろしていた。
――今度は壊さないようにしなくては。
病室の中で誰にも見えない血のように赤い瞳が光っていた。
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ある意味両想いです。
了くんは妹のことがあるので死に敏感というイメージです。
だから?かえって簡単に自分の命を友人のために投げ出すという、対バクラ用のリーサルウエポン。