ばかうけ

赤々と燃え上がる炎、重々しく響く不揃いの足音、遠くで聞こえる悲鳴。
火の手が届かない民家と塀の隙間にバクラは身を隠していた。
そこは子供の身体でやっと潜り込める程度の隙間で、大人なら関心も示さない格好の隠れ場所。
畜生と口からは悪態が漏れる。
手に視線を落としてみれば、すぐに折れてしまいそうなくらい細く小さくなっている。色も浅黒い。
今の自分の姿を確かめることはできないが、思い浮かべるのは容易かった。
バクラは隠れ場所から通りへ、猫科の動物を思わせる素早さで飛び出し、一目散に走り出した。人気のない暗い方へ暗い方へ。
すぐ後ろには追っ手が迫っているような気がした。
それでも、後ろを振り向かずに身を低くして、我武者羅に手足を動かした。
右頬が燃えるように痛む。「この時」にはあるはずのない傷。頬を指先で触っても滑らかな肌の感触しかしない。
走っても走っても終着地点など、まるきり見えない。
なぜならこれは夢なのだから。

千年リングが見せる記憶。
千年リングの中には、千年アイテムが生み出されてから今までの膨大な記憶が染みついている。
長い時の中でバクラが忘却してしまった事柄も多分に含まれている。
それは時折バクラに向かって悪戯に手を伸ばす。
遥か昔の記憶を呼び起こすように。

バクラはギリギリと歯を食い縛って走り続けた。
夢らしく思うように逃げることができない。
足がふにゃふにゃとゴムのようになってみたり、地面を上手く蹴れなくなってもつれたり。
現実ならとっくに逃げ切っているはずだ。
背後に悪夢の魔の手が迫っている状況がずっと続いていた。
例え立ち止まったとしても、夢なのだから死にはしない。
それは分かっているが、立ち止まることさえ思うようにさせてくれないのだ。
大概の夢は思い通りにはならない。夢のルールに縛られてしまっているように。
今のバクラに許されているのは逃げることだけ。
「ハハハ……」
口からは自嘲の笑いが溢れ出た。
こんな夢を見るのは、人間だった頃の名残がバクラの中にまだあるからだ。
くだらないものだと思った。
全て消してしまったはずなのに。まだ残っていたのか。
人間の感情も記憶も不必要なものだ。
だから、バクラは光のない場所へ、闇へと向かって走っていく。
あそこには何もない。とても安心できるところだから。
全てを黒く塗り潰す。
邪魔な感情を全て捨て去り、破壊衝動と破滅願望だけで己の中を満たす。
壊れかけた小さな村だった風景は、いつの間にか暗く狭い一本道になっていた。
徐々に周囲の色も明かりも消えていく。白から灰へ、灰から黒へ。
全てが黒く染まった時に、闇へと辿り着くはずだ。
あと、もう少し。
バクラの瞳に冷たい光が爛々と灯る。薄らと開いた唇の隙間から鋭い歯が覗く。

『そっちはダメだ!!』

がくんとバクラの身体が強い力で引き寄せられた。
向かおうとしていた闇でも、逃れようとしていた記憶の渦の中でもなく、上空へと掬い上げられる。
深い海の底から海面へと誘われるように。
浮上すると共に、バクラの意識は現実へと引き戻されていった。
聞こえてきた声は、とても聞き慣れたものだった。


ぱちりと目を開くと、そこは見慣れた心の部屋だった。
石壁と石床以外は何もない薄暗い部屋。
――夢から覚めたのか。
バクラは身を起こしながら、額や首に汗がじっとり浮かんでいることに気づいた。
手の甲でそれを忌々しげに拭う。
床にあぐらを組んだところで、目の前にもう一人いることに気がついた。
薄暗い部屋の中でも、ぼんやりと微かな光を放っている。
闇夜に浮かぶ蛍の光のように、儚く消えそうでありながらも、優しくあたたかい灯火。
浮かべている表情もそれに似て慈悲深い。
「宿主、なぜここへ」
バクラは座ったままで問いかけた。
獏良の方からバクラの領域には踏み込めないはずだ。
問い詰めようと思っても、先ほどまで見ていた夢の影響で全身が重い。
立ち上がるのも億劫だった。
「呼ばれたから。覚えていないの?呼んだんだよ、僕のこと」
明るくあっけらかんと獏良は言った。
「呼んだ?」
夢の中で藻掻きながら、気づかないうちに呼んでしまったのだろうか。
うっかり呼んだ相手が宿主である獏良だと思うと滑稽だった。
「呼ばれたら、来ないわけにはいかないよ」
獏良の声色には軽蔑も嘲りもなく、あくまで世間話をするような自然な調子だった。
普段と変わらない獏良ののんびりとした口調が、バクラに夢から覚めた実感を強く持たせた。
「嫌な夢、見てたんだね」
バクラはそれには答えなかった。
面白くない気分になって獏良から目を逸らす。
見られたくないところを見られてしまったらしい。
「嫌な夢は怖いよね。逃げ出したくても逃げられないし、目覚めたくても目覚められない。
夢の中で泣いても叫んでも、誰も助けてくれないんだ。朝になって目が覚めるのを待つしかない。
夜中に目が覚めたとしても、もう一度眠るのが怖くなる」


獏良にも経験はあった。
幼い頃、とても恐ろしい夢を見て、夜中に目を覚ましたことは何度もあった。
起きると夢の内容は忘れてしまうのに、恐怖の感覚だけはしっかり覚えていて、布団の中でガタガタと震えていた。
しかし、隣で寝ている母の温もりを感じると、とても安心してまた眠りに就くことができるのだ。
「怖くない怖くない」と胸を擦ってもらった記憶もある。
いつか、自分がしてもらったことを、誰かにしてあげたいと思っていた。安心を与えられる側に。


「眠ってもいいんだよ」
そんな気持ちを込めて、バクラに言葉をかける。
「眠ってもいいんだ。また悪い夢を見るかもしれないけど、僕がいる」
バクラは落ち着いた声に誘われるように顔を上げた。
「ここは君の中かもしれないけど、僕の中でもある。
ずっとそばにいるから、いつでもそばにいるから、安心して眠って」
「別に心配はしてねえよ……」
バクラの反論に対し、獏良は整った顔立ちをくしゃりと笑みの形に歪ませる。
誰もが心を緩める和やかな表情だ。
バクラの口の端が小さく持ち上がった。
今はまだもう少し、面倒な人間の心を持ったままでいても良いと思った。
この人間の前だけでは、感情が煩わしいものだと思わなかった。

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バクラは人間っぽい時とそうでない時の振り幅が大きいなあと思っていて、そうでない時は勝手に「ゾーク化」と呼んでいます。
人間の心を教えてあげて、闇に染まらないように繋ぎ止めているのは、了くんであって欲しいなという思いを込めて。

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