獏良了は非常に稀な性質を持つ人間だ。
言動は控えめでありながらも、自分の意見をしっかり持っている。友人に対して鋭い物言いをすることもある。
それを発揮するのは、大抵狭い自己領域の中のみで、口にすることは少ない。
だから、数少ない友人以外からは、何を考えているか分からないと言われる。好意的にはミステリアスとも。
人並外れた容姿のせいもある。彼の繊細な顔立ちは近寄りがたく思われがちだ。逆に必要以上に騒がれることもある。
本当はずっと親しみやすい性格をしているのだが、大半の人間はその容姿に惑わされる。様々なレッテルを彼に貼りつける。
しかしやはり、そんな雰囲気を産み出しているのは、彼を取り巻く事情が大きい。
不幸な過去と現在抱えている秘事。
他人に簡単には踏み込ませないような空気をまとっていた。
かつての同級生はこう言った。
『仲良くはなかったなあ。なんか取っつきにくいっていうか……。
別の世界の人間って感じで。あんな見た目してるし。
でも、一緒に遊ばなくて良かったよ。だってあいつ――』
お陰で獏良は新雪のように真っ白な心を持ったままでいられた。
誰にも踏み荒らされたことのない清らかな魂。
それは人として良くも悪くもあった。
学校からのいつもの帰り道、獏良は両手に買い物袋をぶら下げ、商店街を抜けた表通りを歩いていた。
このまま歩いていけば、数分で自宅に着いてしまう。
洗剤の買い置きはまだあったかな、照明がそろそろ切れそうだったはず、と考えつく限りの用事を思い浮かべていた。
精一杯ぐずぐずし、帰宅時間を延ばす。
できること全てが終わると、いよいよ自宅が近づいてきた。
回れ右をして、友人宅へ逃げ込みたい衝動に駆られる。
でも、駄目なのだ。
今日は友人と約束をしていない。
約束をしていなくても、心優しい友人たちは獏良を受け入れてくれるだろう。
しかし……。
マンションのエントランスに辿り着き、エレベーターの呼び出しボタンを押した。
最上階に止まっていたエレベーターは途中で止まることなく順調に下りてくる。
扉が開かれれば、エレベーターに乗らなくてはいけない。
六階まであっという間に運ばれてしまう。
機械不良で停止すればいいのにと、不謹慎な考えが獏良の頭をよぎる。
願いも空しく、機械の箱は一度も停止をせずに、獏良を自宅のある階層へと送り届けた。
あとはもう開錠すれば、誰の目にも触れられない場所に閉じ籠ることになる。
鍵を錠穴に差し込み、獏良は一瞬だけ動きを止めた。
こくりと唾を飲み、鍵を横へ倒す。
ひんやりと冷たいノブに手をかけて扉を開けた。
外出時にしっかりと消灯した室内は暗い。
玄関脇のスイッチを入れ、照明を点ける。しかし、まだ薄暗い気がした。心なしか肌寒くも感じる。
リビングのテーブルの上に買い物袋を乗せ、先に部屋着へ着替えた。
袋から購入したものを取り出し始めたところで、
「ずいぶん買ったな」
自分のものよりも一段低い声が耳に届いた。
獏良は目を閉じ、静かに息を整えてから、
「まとめて買った方が安かったから」
努めて単調に答えた。
「フーン」
嘘は言っていない。
テーブルの上に並んだものは全て食料品と消耗品だ。不必要なものなどない。
バクラは獏良の肩越しに購入品を長々と見つめた。
その間、獏良は息が止まりそうだった。
たかだか買い物の内容を見られるだけなのに。
無駄な買い物をしたわけではないのだから、堂々としていればいい。
買い物の理由が、「家にいる時間を少しでも減らしたかったから」でなければ。
バクラの視線がようやくテーブルから離れ、獏良はほっと胸を撫で下ろした。
問題はなかったらしい。
五分もかかっていないはずなのに、重く長く感じられる時間だった。
「さてと」
バクラの口が再び開かれると、びくりと獏良の肩が震えた。
「いつもの、聞かせてもらおうか」
「――それから、遊戯くんたちと昼食を取って、昨日発売したゲームの話をした。午後の授業が終わった後は、すぐに学校を出た」
バクラは背もたれに腕をかけ、悠々とソファに座っている。
対する獏良はその目の前に立ち、指を落ち着きなく絡ませては解く仕草を繰り返していた。
今日あったことを一部始終語り終え、ぴたりと獏良の口が閉じた。
バクラの顔色を怖々と窺う。
獏良が話している間も、いま現在も、バクラは唇を愉快そうに歪めたままでいる。ここまで一つも言葉を挟むことはなかった。
「で、御伽とどうしたって?」
唐突な質問に、獏良の頬に汗が伝う。
バクラが尋ねたのは、先ほど話したばかりのくだりだ。わざわざ確認するまでもないはず。
「御伽くんとは……新しいゲームの案があるから、意見を聞かせて欲しいって言われて、休み時間に意見を交換しただけ……」
最後の「だけ」を強調し、ほぼ同じ内容をもう一度口にした。
何かおかしいところがあったかと疑問に思いながら。
バクラの唇がすいと横に広がる。
「ダメだ」
「なぜ?」と聞き返す暇もなく、獏良の膝ががくんと折れた。
触れられてもいないのに、上から押さえつけられたようだった。
フローリングに脛と膝をしたたかに打ちつける。
獏良の口からは悲鳴の代わりに息が漏れた。
反対にバクラはソファから立ち上がり、強制的に座り込まされた獏良を見下ろす。
「ダメだなァ」
口元は笑みの形を描いているのに、目の奥は全く笑っていない。
「気に入らねえなあ、宿主ィ」
打った足を押さえてバクラを見上げたまま、獏良は動けなかった。
いつもこうだ。
その日起こったことを報告させられる。
必ずどこかにバクラの気に触ることがある。
獏良には何が悪いのか分からない。
反抗的な態度を取ったり、友人たちに相談しようとしたりすれば、問答無用にアウト。それは分かる。
だから、気をつけて行動している。
それ以外の些細な何かがバクラの気を悪くしてしまう。
友人と遊ぶ約束をして、遊びに行くことについては、指摘されたことはない。
趣味の模型作りの材料を買いに寄り道をしてもセーフ。
だが、約束もなしに急に遊びに行くのは許されないらしい。
それどころか、城之内に余りのおかずを差し入れたり、本田から新しいカードを見せてもらったりしたことが、気に入らないと言われたこともある。
後輩女子から個人的な伝言を頼まれた時もそうだった。
友人たちと仲良くしてはいけない、ということではないらしい。
獏良は混乱した。
何がセーフで何がアウトなのか。
常に身体を共有しているので、嘘や誤魔化しは効かない。
今こうして問われていることも、本当は全て見ていたのかもしれない。
何度も考えているうちに、獏良はこう結論づけた。
『正解などない』
人を玩具にして楽しんでいるだけ。
そう思えば、全て納得ができた。
法則などない。考えるだけ無駄だった。
バクラが「気に入らない」と言えば、不正解なのだ。
「することがあんだろ?」
獏良は下唇を噛んだ。バクラの求めていることは分かる。今まで何度もさせられてきた。
それは獏良の自尊心を今まで酷く傷つけてきたことだ。
じんじんと痛む膝以外に、心も悲鳴を上げていた。
口が思うように開かない。
「ほらァ、忘れちまったのか?」
じわじわと真綿で首を絞められているような感覚。
バクラの口調はあくまで優しげだ。
「それとも、お友達に直接聞いてみた方がいいのかァ?」
「だめッ!!」
反射的に獏良はバクラの足元に縋った。
その姿を見下ろすバクラの眉間に皺が刻まれる。
これなのだ。逆らえない理由は。
獏良の周りの全ての人間が人質だった。
友人の名前を出されれば、逆らうわけにいかない。何をされるか分かったものではない。
獏良は視線を床に落とし、爪を立てた。
「分かってるな?さあ、オレ様に赦しを請いなァ!!」
「……うぅっ」
屈辱と悲しみに染まった顔をゆっくりと上げる。
そして、ぴたりと合わさった唇をこじ開ける。
「ご……ごめんなさい。勝手なことをして。僕が悪いんだ。赦して……下さい……」
声が震えて後半はちゃんと音声になったのか分からなかった。
何に対しての謝罪なのか、納得は一つもしていない。
それでも、友人のためを思えば、そうするしかなかった。
バクラは目尻を下げて歯を剥き出しにした。
「いいねェ」
片膝を床につき、大きく両手を広げて朗々とした口調で言った。
「オレ様は心が広いからな。赦してやろう」
そして、その腕が獏良を優しく包み込む。
冷たく無機質な声とは裏腹に、壊れ物を扱うような仕草だった。
獏良の耳元で低くねっとりとした声が囁かれる。
「謝罪には償い、だよなァ?」
獏良は眩暈にも似た奇妙な浮遊感に見舞われた。
――ああ、またあそこへ連れて行かれるのか……。
逃れる術もなく、獏良の意識が闇へ落とされる。
次の瞬間には、そこでバクラに組み敷かれていた。
獏良の真上には真っ赤な両眼と白い歯が浮かんでいる。
ここで何度抱かれたのだろうか。
どんなに会話を重ねようとも、いつも最後に辿り着くのはこの結末だった。
いくら乱暴に捻じ込まれても、現実の肉体は綺麗なまま。
だから、何度も同じことを繰り返される。お気に入りの映像を何度も繰り返し見るように。
悪い冗談だと思った。
バクラの舌が獏良の首筋をねちょりと舐め上げる。
悲鳴を上げて身体を離そうとすると、逆側の首筋にひたりと何かを押しつけられた。闇の中で鈍色に光るナイフ。
視界の端に見えた瞬間、獏良の口からひゅうという吸気音が発せられた。
「おっと、動くなよ。下手に動くと、ぱっくりいくぜ」
とても単純な脅し文句だが、ナイフの暴力的なイメージとフォルムは強烈な印象を与える。
見せつけられるだけで、普通の人間は身体が思うように動かなくなってしまう。
「……うっ」
獏良もその例に漏れず、目を瞑り、身体を強張らせた。
「そうそう、廃人になりたくなきゃ、そうしてなァ。厄介だぜ。心に受けた傷はよ。治りも遅い」
バクラの息がふうふうと獏良の首にかかる。
獏良は奥歯を噛み、撥ね飛ばしたい衝動に耐えた。
「いい香りだなァ……」
首筋から鎖骨に唇が下りていく。
そこでぴたりと動きが止まり、しばらく獏良の胸の上にバクラの頭が乗せられた。
何をしているのだろうかと獏良が不可解に思ったとき、突如バクラの上半身が起き上がった。
獏良の首にナイフが縦に真っ直ぐ当てられる。
そして、そのまま下へゆっくりと下りていく。力は籠められていない。
肌の上を冷たい感触が滑っていくだけ。
服のボタンにナイフの先が引っかかった。バクラは構わずにナイフを先へ進める。
――ぷつり。
前開きのボタンの糸が切れる。
ぷつり、ぷつり、ぷつり。
上から下まで。
肌は無傷なのに、腹を上から引き裂かれているようだと獏良は思った。
全てのボタンが外され、素肌が剥き出しになる。
透き通るほど真っ白な肌。どこを見ても汚れ一つない。
「これから何されるか、分かってるよな?贖罪の時間だ」
バクラが獏良の白い身体に覆い被さる。
抉じ開け、ねぶり、押さえつけ、噛みつき、突き上げる。
獏良は無抵抗に一方的な行為を受け入れた。
全ての欲望をぶつけ終わり、バクラは獏良を胸に抱いた。
頭を撫でながら、柔らかな髪を指で梳く。
汗ばんだ肌と肌が重なっていた。
「宿主……」
ぐったりと動かない頭に頬を擦り寄せる。
腕の中に獏良の細い身体が収まっている。思うがままだった。何もかも自分のもの。
バクラはこの上ない充足感で満たされていた。
先月、獏良に好意を寄せる女子生徒と口を聞いた罰として、身体を拘束した時も、バクラの胸は痺れるほど熱くなった。
獏良は床に転がったまま丸一日を過ごし、虚ろな目で「みず……。みず……のま……せて」とバクラに求めた。
その時の光景を思い出す度に、バクラは震えが止まらなくなる。
再び湧き上がった欲情を解消するために、獏良の唇を求めて頬に手をかけた。
唇を近づけようとしたところで、その口からフッと小さな息が吐かれた。
「満足した?」
獏良は頭を持ち上げ、瞳を見開いてバクラに向けた。手には先ほどのナイフ。
「おまえ……!」
取り押さえられる前に獏良の手が動いた。
バクラの胸に突き立てるのではなく、自分の首筋へ。
行為の前にバクラがそうしたように、ナイフを自分で押し当てた。
僅かに遅れて、バクラの手が獏良の手首を掴む。
「たとえ友だちを盾にして、僕を好きにしたとしても、僕は負けない」
拮抗した力がぎりぎりとナイフを取り合う。
細い身体のどこにそんな余力を残していたのだろうか。
「お前は僕を壊せない。僕がいなきゃ存在できないんだろう?」
一点の曇りもない瞳がバクラを睨みつける。
――あの時と同じだ。
バクラが遊戯に初めて闘いを挑んだあの時、獏良は同じ瞳で歯向かってきた。
「僕自身が人質だ」
ナイフを持つ獏良の手に、さらに強く力が籠る。
「ふざけんな……」
純粋な力はバクラが上だ。同じ肉体でも、使い方が違う。
ナイフを持つ手を獏良の身体から引き剥がそうと、全身の力を腕に集中させる。
獏良の腕が首から離れ、取り上げたと思ったのも束の間――。
何の躊躇いもなく、獏良は自らナイフに顔を近づけてきた。
「……チッ!!」
バクラは強く腕を引いた。ナイフが宙を舞う。キンと音を立て、二人から離れた場所に落ちた。
獏良の頬には薄い一筋の傷がついていた。
もう少しナイフを取り上げるのが遅ければ、獏良の顔面はザクロの実のように割れていたかもしれない。
傷口から少量の血が流れ、バクラの胸にぽたぽたと滴り落ちる。
「ほら、ね」
表情を崩さずに獏良は口を開いた。
「僕を壊したら困るのはお前の方」
驚愕と怒りが入り交じり、バクラは青筋を立てて唇を噛んだ。
獏良了は非常に稀な性質を持つ人間だ。
言動は控えめでありながらも、自分の意見をしっかり持っている。友人に対して鋭い物言いをすることもある。
他人に簡単には踏み込ませないような空気をまとっていた。
穢そうとしても、いつまでも新雪のように真っ白な心を持ったままだ。
闇の意志でも踏み荒らすことのできない清らかな魂。
バクラがどんなに手の中で潰して、捏ねて、丸めて、好きな形にしようとしても、思い通りにならない。
躍起になって穢そうとすればするだけ、白くなっていく。バクラの手から擦り抜けていく。
「クソッ!!」
バクラは吼えた。胸に獏良を抱いて。世界でたった一つだけ手に入らないものを。
獏良了は穢せない。
----------------
了くんの儚げだけど、強いところが大好きです。
誰よりも白いから染まらないんだなあと思って書きました。
あと、バクラはバクラで間違いなく宿主を大切にしているんだけど、人間の感覚や感情とは違っていて、表現の仕方がまるで違うじゃないかなあとも。
二人の温度差が少しでも表現できていれば嬉しいです。