テーブルの上には一つのティーカップ。
カップの中には白みがかった薄茶色の液体。
その水面から湯気が立ち上がり、注がれてから、さほど時間が経っていないことが窺える。
湯気と共に甘ったるい香りが周囲に漂う。
獏良はそのティーカップを両手で包み込んだ。
カップの表面から手のひらにじんわりと熱が伝わる。
「はあ……」
口から漏れたのは至福の溜息。
今日は一段と冷える。
天気予報でも、この冬一番の寒さだと報じていた。
マンションとはいえ、外気温が一桁になれば、日当たりや密閉性は関係なくなる。
電気代という言葉が獏良の頭を掠め、耐えに耐えていたが、もう我慢ができなかった。
エアコンをつけ、三角印が書かれたボタンをぐいぐいと押し、温度設定を上げた。
温風が勢いよくエアコンから排出され始めたが、一人暮らしには広すぎる部屋に熱が行き渡るには時間がかかる。
獏良は手っ取り早く身体を温めるために紅茶を淹れたのだ。
寒さで冷えた指先が温まっていく。
カップを顔のそばまで持ち上げ、紅茶の香りを楽しむ。
鼻をくすぐる甘い香りは紅茶のものだけではない。
小鍋で沸かした湯に、紅茶を一匙。茶葉が開いて湯が赤茶色に染まったところで牛乳を入れる。
あとは弱火で煮立たせないようにゆっくりと温めていくだけ。
茶漉しを使ってカップに注ぐと、紅茶と牛乳の香りが結びついた湯気が立ち込める。
口当たりがまろやかなミルクティー。
ハチミツも垂らしてある。
手間をかけて淹れた紅茶は、いつもより上等なものになったように思える。
きっと、美味しいはず。
獏良はもう一度深く香りを吸い込むと、口はつけずにカップをテーブルの上に戻した。
「ふう……」
目を瞑り、香りの余韻に浸る。
「飲まねえのかよ!」
突然、粗暴な声が静けさを打ち破った。
獏良の内側から響く声は、疑うべくもなくバクラのものだ。
声には苛立ちが滲んでいた。
「紅茶を飲むのも飲まないのも僕の自由だよ」
慌てず騒がず、獏良は落ち着き払って言葉を返す。
「さっきから見てりゃ、勿体ぶりやがって。たかが茶だろ。さっさと飲めよォ!」
なおも止まらない指摘に、獏良の下唇が突き出される。
姿も現さずにぎゃんぎゃんと頭に響く声は、穏やかなティータイムの邪魔でしかない。
そもそも、なぜ紅茶を楽しんでいる姿まで見張られているのかも理解不能だ。
これ以上構ったところで意味はないと、無視を決め込もうとした時、
「飲めないんだろ」
先ほどまでの声の調子とは一転して、冷静な一言が浴びせられた。
「飲まずとも楽しめます風に装っていたが猫舌だろ、お前」
カップを持つ手が小さく跳ね、かちゃりと音を立てる。
「……よくご存知で」
獏良は冷え性でありながら、皮肉なことに猫舌だった。
淹れたての紅茶はまず飲めない。
ふうふうと息を吹きかけ、よく冷まさないといけなかった。
「ったくよォ……ちょっと貸せ」
獏良が答える暇もなく、バクラが「表」に現れる。
カップを持ち上げ、躊躇いもなく中身を口の中へ流し込んだ。
ごくりと喉を鳴らして紅茶を飲み込む。
「甘ェ……」
眉間に皺が寄るも、熱さが原因ではない。
「うそ。なんで。僕は飲めないのに」
獏良は目をぱちぱちと瞬き、不思議そうにバクラを見つめた。
「ほれ」
すぐに身体の操縦権が戻される。
口の中に紅茶の後味を感じた。
獏良はまだ一口も飲んでいないのに不思議なものだ。
同じようにカップを口に運ぶが、
「あつッ!」
舌先が液体に触れた時点で耐えられなかった。
一口も味わえないままに、ふうふうと息を吹きかける。
紅茶の水面に小さなさざ波が立つ。
いまだに湯気が立っている紅茶に対して、あまりに細やかな行為だ。
飲めるようになるまで、だいぶ時間はかかるだろう。
他人からすると、焦れったさこの上ない光景だった。
「飲み方が下手なんだよ。だらしねえ舌の使い方しやがって」
「えー……」
想定外の指摘に、獏良の口が半開きになる。
獏良が温かい飲み物を口にする時には、薄紅の唇からそれより鮮やかな色の舌先が微かにちらつく。
小刻みに震える舌がおっかなびっくりと、カップに、水面に、ちろりと触れる。
温度を感じ取ると、ローズピンクの先端がびくりとうねり、白い歯の内側に隠れ、ぴたりと二枚の花弁が閉じられる。
じっと観察しなければ分からない些細な動作。それも獏良自身も気づかないほどの。
同じ肉体でバクラが熱い紅茶を口にしても問題なかったことで、何かが悪いことは理解できても、その何かが具体的には分からなかった。
しかし、温かい飲み物を飲むのが下手なのは明らか。
納得がいかないと言いたげな獏良に、
「口開けて見ろよ」
バクラが囁く。
獏良はその意図が掴めないままに口を開く。
口内の中央にふるふると収まる舌に、周囲には折り重なる赤みを帯びた粘膜のヒダ、奥には普段人に晒されることのない小さな空洞がぽっかり空いている。
バクラがふわりと獏良の目の前に姿を現し、顎を下から持ち上げるように掴んだ。
顔を近づけて口内を無遠慮に覗く。
普段と変わらない鋭い視線が注がれると、獏良の体温が上がっていくようだった。
それは近すぎる距離だけが問題ではなさそうだ。
よく考えもせずに口を開いてしまったが、こうしてじっくりと見られていると、羞恥心が込み上げてくる。
秘密の入り口を抉じ開けられてしまったような気分だ。
もう充分ではないかと、獏良が唇を閉じようとすると、細長い人差し指が中に差し込まれた。
「ここ、な」
舌の先端をぐいと舌に押される。
「ここを無闇に使ってっから熱いと感じんだよ。ヘタクソ」
「えふっ」
「もう少し上手く舌を使えよな」
獏良がむせ始める前に、指がぬるりと引き抜かれる。
「なにするの。上手く使えって、そんなの急に分かるはずないよ」
「じゃあ……」
間近にある瞳が細く歪む。
「手本を見せてやるよ」
バクラの顔が近づき、獏良の視界が塞がる。
温かく柔らかいものが唇から口内へ分け入る。
それが規則正しく並ぶ白い門の間を通り、内側に潜り込んだ。
口内の形を一つ一つ確かめるように、ぬるぬると這い回り、獏良の舌に絡みつく。
舌の上のざらつきを丹念に調べ上げ、口蓋を撫で回す。
「ふぅ……」
熱に対しても敏感に反応する舌先は、もっと強い刺激によって溶かされてしまいそうだった。
嫌がる素振りも見せない獏良に、バクラの胸の奥で甘美な火花が散る。
熱を逃がさないように、ますます執拗に口内を責め立てた。
ぎこちなく動く舌先をちろちろとくすぐり、音を立てて強く吸い上げる。
「――っはぁ」
水音と共に唇と唇が離れ、もう一度だけ軽く二つが重なった。
「舌はこうやって使うんだよ」
熱い吐息が獏良の唇にふうと吹きかけられる。
「……ずるい」
まだ一口も紅茶を味わってもいないのに、口の中にはまだ仄かな甘さが残っていた。
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以前、猫舌は舌を折り畳むのが下手なだけということを聞いたことがあって、
じゃあ了くんの時は猫舌で、バクラの時は猫舌じゃなかったら面白いなと思って書いてみました。
舌の使い方が上手いということは……というオマケ付きで。
梅田のタワレコカフェの書き下ろし了くん色紙記念です(2017.1)。