コットン生地のパジャマが獏良の肌を優しく包む。
普段より長めに湯船に浸かり、身体はまだぽかぽかと熱を持っている。
その熱を逃がさないように布団の中へ滑り込んだ。
乾かしたばかりの髪がふわふわと揺れ、その柔らかさは綿菓子のよう。
今日は夜更かしをせずに寝てしまおうと決めてからの行動は早かった。
洗い物も明日の学校の準備も済ませて、あとはただ眠るばかり。
枕に頭を預け、胸元まで掛け布団を引き上げれば、すぐにでも夢の中へ行けそうだった。
さあ、寝ようと、身体を倒しかけたところで、
「におう」
胸元の千年リングが声をかけてきた。
「なに?」
獏良は身体を起こしたままで、千年リングに視線を落とした。
「嗅いだことのない匂いがする」
姿は現さずにバクラの声だけが響く。
アロマを炊いたり、ルームフレグランスを置いたりなどと、指摘を受けるようなことはしていない。
部屋の片づけは簡単にしたが、消臭剤は使っていない。
獏良はすんすんと鼻を鳴らした。
おかしな匂いは一つも……。
「あ、髪?シャンプー変えたんだ」
ピンと思いついたのは、ドラッグストアの店先に積まれていたボトル。
特にこだわりはなく、値段に惹かれて買ってしまった品だ。
普段と違うことといえば、それしかない。
「それだ」
抑揚のない声が答えを返した。
「そんなにキツい匂いかな?安かったから気にしてなかったんだけど」
髪を掴んで鼻元まで持っていくも、いまいちよく分からない。
ボトルから液体を手に取った時は、強い香りがすると気づいてはいた。
洗髪をしている間に鼻が慣れてしまったのだ。
少し甘い香りがするくらいにしか今は思えなかった。
「キツくはない」
返事は短いものだったが、変だぞと獏良は首を傾げる。
このようにバクラが香りを気にすることは珍しい。
そもそも、バクラの口から香りについて言及したことが過去にあっただろうか。
――ない。
日常生活において、バクラの感情が動くことはほぼない。
獏良の目から見ても、興味がないのだとはっきりと分かる。
だから、バクラがわざわざ指摘をすることを不思議に思ったのだ。
「ちょっと嗅いでみてもいいか?」
「え、うん」
獏良が深く考えずに頷くと、目の前にバクラの顔が現れた。
向かい合わせで頬を寄せるように近づく。両手は肩の上に乗った。
――嗅ぐって。そういう……?!
思ってもみなかった距離に、獏良は布団の端を握りしめた。
可視化しているだけで、実際に肩を押さえられているわけでも、千年リングの力で押さえられているわけではない。すぐに逃げられる状態だ。
何をしなくても誰よりも近い距離にいるわけだから、姿を現す意味もないように思える。
しかし、獏良の身体に大人しく顔を近づけているだけの姿を見ていると、逃げる気は失せた。
バクラの仕草はどこか動物的で、ペットに懐かれているような気分もあった。
「変なにおいする?」
「しない。悪くない」
バクラは目を瞑り、さらに顔を近づける。
鼻先が獏良の頬についてしまいそうだった。
花の香りと柑橘類の香りが鼻腔をくすぐる。
果物の爽やかな香りによって、花の甘い香りがくどくなりすぎないようにまとめられている。
ふんわりと柔らかい髪によく合っていた。
逆側の肩に置いた手を持ち上げ、髪を梳くように動かす。
指に髪は絡まない。
それでも、絹糸のような髪が指の間を滑り、宙に舞う光景が思い浮かんだ。
髪から白い首筋へと場所を移す。
息を呑む音が微かに聞こえた。
風呂上がりの火照った肌から香り立つのは、馴染みのある優しい石鹸の香り。
その下には肌本来の瑞々しい香りが潜んでいる。
首筋から鎖骨の辺りまで下りる。
襟口からは一層深い香りが漂ってくるようだった。
「お前の……」
バクラの口から呟きがこぼれ落ちた。
「え?」
聞き返す声には答えない。
この身体に宿ってから、ずっと感じていた香り。
たった数年間。過ごしてきた時間とは比べ物にもならないが、既に懐かしささえ覚えている。
自分で身体を動かしているときは、気にも止めないのに。
獏良がいて、その中でゆらゆらと揺蕩っている時にだけ感じる香り。
この香りに包み込まれている時だけは心が緩む気がした。
――いい匂いだ。
口には出さない。
獏良の胸元に頭をじっと寄せ、肌の温もりと香りに満たされる。
全く動かなくなったバクラに、獏良は声をかけるか迷った挙句、そのままでいることにした。
上から少しだけ見えたバクラの顔が穏やかなような気がして。
就寝時間を少しだけ先送りにした。
そのほんの僅かな間、菓子よりも甘く、樹木よりも優しい香りをバクラは独り占めにした。
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五感で楽しむバク獏シリーズ。