話し声が聞こえる。
トイレに行くために部屋を出て、真っ暗な廊下の先に漏れている明かりが見えた。
獏良は寝惚け眼をこすりつつ、まだ半分眠っている身体を引きずるようにして廊下を進んだ。
明かりが点いているのはリビングだ。
部屋からトイレに向かうには、右手にあるリビングの扉の前を通らなければならない。
半覚醒の覚束ない足取りで、一筋の明かりを頼りに向かった。
何時なのか知る術はないが、真夜中には違いない。
こんな真夜中に起きているのは大人だ。
この家に大人は両親しかいない。
暗い廊下は幽霊か化物が潜んでいそうで少し怖いが、この先に両親がいると思えば我慢はできる。
夜中なのだから静かにと、かかとからゆっくりと床を踏む。
一歩進む度にパジャマの下からチャリと金属の音がした。
ペタリ、チャリ、ペタリ、チャリ――。
リビングの扉の前に辿り着いた。
そのまま前に進めば、すぐにトイレだ。
獏良は歩みを止めて右を向き、リビングの扉の前に立った。
ドアの上半分には透明ガラスが嵌め込んであり、中が覗けるようになっている。
話しかけなくとも両親の姿を一目でも見れば、暗い廊下にいても安心できる。
そう思い、ドアの前で背伸びをした。
見えた姿は二つ。
やはり、両親だった。
二人はテーブルを挟んで向かい合っている。
獏良は見慣れた顔に胸を撫で下ろし、もっと二人の顔がよく見えるようにと、ガラスの縁に手をかけて限界まで爪先に力を入れた。
――なんのお喋りをしているのかな。
中から聞こえてきたのは……。
「あなたはいつもそう!!いつも仕事ばかり!もっと私たちのことも考えてよ!」
「なんだその口の利き方は!お前たちのために稼いできているんだぞ!!」
それまで半分夢の中だった意識が即座に覚醒した。
ガツンと頭を叩かれたようだった。
火花こそ散らなかったが、驚きで身体が硬直してしまった。
扉の向こうにいる父親と母親は、いつもの二人ではなかった。
顔を醜悪に歪めて、赤黒い喉の奥を見せて、激しく罵り合っていた。
ふらりと獏良の足がよろける。
廊下とリビングを隔てているのは扉一枚のはずだ。
それでも、遠くに感じる。
獏良のいる暗い廊下と両親のいる明るいリビングは、別世界のようだった。
両親の言葉はもう上手く聞き取れない。
それは一種の自己防衛本能で、言葉を理解する前に頭から追い出していた。
辛うじて、「古臭いモノなんか」、「金のことばかり」、「アマネのときも」などの印象の強い言葉だけが耳に入ってきた。
怒鳴り声がわんわんと耳の中で反響して、動物の唸り声のようになり、吹き荒ぶ風の音のようになり、やがて人間のものとは思えないただの雑音になった。
ごう、ごう、ごう――。
もはや、扉の向こうにいるのは両親ではない。
天井まで届きそうな背丈の、口がやけに大きい、怪物に見えた。
震える足で数歩下がる。
自然と廊下に射す明かりの中から身体が抜け出ていた。
一刻も早くリビングから遠ざかりたい。
明かりに背を向けて、暗い廊下へ足を踏み出した。
先ほどまであった足の感覚は失せ、歩けているのか不安だったが、少しずつ確実に前へ進んでいた。
廊下の先は行き止まりでトイレしかない。
あと数歩進めば、トイレのドアに辿り着く。
しかし、目の前に現れたのは、ドアではなく人だった。
明かりのない廊下ではよく見えなかったが、それは自分の形をしていた。
長い髪も背格好も同じ。
獏良はほとんど無意識に右手を肩の高さまで上げてみた。
目の前の人影も全く同じように「左手」を上げた。
続いて、左足を前に出した。
チャリとまた音が鳴る。
やはり、同じようにもう一人の左足が動いた。金属の音は鳴らなかった。
鏡だ。
廊下の中央に鏡が置いてある。
獏良が咄嗟に思い浮かべたのは、母親の部屋にある姿見だった。
出かける際に母親が身嗜みを整えるのに使う大きな鏡。
小さな獏良がその鏡の前に立つと、すっぽり全身が鏡の中に収まってしまう。
なぜそれが廊下に置いてあるのか分からない。
母親が移動させたのだろうか。
獏良の意識はふわふわと眩暈にも似た浮遊感に包まれていた。
先ほどの騒音の余韻が獏良からまともな思考を奪っていた。
目の前にある鏡をどかすか、横を通り抜けるか、それだけを考える。
獏良は口元に右手を当てた。
当然、鏡の中の獏良も同じように左手を上げ――。
獏良の手首を掴んだ。
掴まれた感触はしない。
触れられているはずの部分が、自分の肉体でなくなったように冷たい。
――鏡なのに。
手首を掴んでいるのは何者かではなく、なぜ同じ動きをしないのかを疑問に思った。
鏡なのだから、同じ動きをしないのはおかしい、と。
もう一人の獏良は、右手も獏良に向かって伸ばした。
――なんでだろう。なんで勝手に動くんだろう。
二つの手が獏良の両耳を塞いだ。
『何も聞いてない』
もう一人の獏良は言った。
全く同じ声。
耳を塞がれていても、鮮明に聞こえた。
風呂場やトンネルで自分の声が跳ね返るのと同じ。
やはり、目の前の人物は自分なのだ。
これは、鏡。
だから、同じように喋らなければ。
「何も聞いてない」
くすりと息が漏れる音がした。
『お前は、何も聞いてない』
おかしいなと思う。
「僕」なのに、「お前」というなんて。
それでも、獏良は復唱した。
「僕は、何も聞いてない」
『お前は、何も見てない』
「僕は、何も見てない」
『お前は、誰にも会ってない』
「僕は、誰にも会ってない」
いつの間にか、もう一人の自分に頭ごと抱えられていた。
聴覚だけでなく、視覚も奪われる。
『お前は、』
「僕は、」
両親が廊下で倒れている獏良を見つけたのは、それからすぐのことだった。
両親は悲鳴を上げて、夜間診療所へ獏良を連れて行った。
診察台の上に寝かされ、医者と両親の会話を虚ろな目をして獏良は聞いていた。
時間が時間だけに精密検査はできない。
医者は聴診器を当て、身体を探り、恐らく問題ないでしょうと両親に伝えた。
環境の変化を例に挙げながら、この年頃の子供は心も身体も不安定、きちんとコミュニケーションを取っていますか、などと指導が入る。
今日はこのまま帰って様子を見て、心配なようなら昼間に来るようにと、医者は流れるように両親へ告げた。
両親は憔悴しきった顔で医者に何度も聞き返していた。
獏良の目に映っているのは病院の天井ではなく、目覚めた時にそばにあった両親の取り乱した顔だ。
目の焦点が合わず、輪郭が二重に見えていたが、二人は獏良の顔を覗き込んで必死に呼びかけていた。
いまだに忙しなく身体を揺らす両親とは対照的に、獏良は落ち着いていた。
二人の慌てた様子を見て、なぜかとても安心をした。
――良かった。もう一人の僕が言った通りだ。
『もう、何も心配することはない』
あの声はどこか少し薄暗かったけれど、心配することはもう何もない。
赤ん坊に戻ったような心地で、獏良は両親の声を静かに聞いていた。
病院から帰宅した後すぐに廊下を見てみたが、姿見など影も形もなかった。
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もう一人の存在を守らなければならないのが宿命という闇遊戯の言葉を思い出して。