獏良は床に座り込んで戸棚の奥にしまったままになっていたアルバムを一ページ一ページ丁寧に捲っていた。
中身はほとんど子どもの頃の写真だ。
こんなこともあったなあと懐かしさに、記憶が朧げな部分は新鮮な気分で、目を細めて見ていく。
写真は撮影順に並んでおり、追っていくだけで獏良家の歴史が分かるようになっている。
幼い頃のものは子どもの成長記録としての役割を、就学後は家族の思い出を記録する役割を果たしていた。
乳幼児期は月齢と撮影状況が丁寧に書かれているが、それ以降の写真にはコメントはついていない。
家族旅行の写真は背景で場所と撮影時期を判断するしかなかった。
逆側からもう一つの頭がアルバムを覗き込んでいた。
もう一人は時折写真を指差し、質問を投げかける。
それに対して獏良は丁寧に答えていく。
ある時期を境にぴたりとその質問が止んだ。
飽きたのかと獏良がバクラの顔色を窺うと、変わらずアルバムに見入っていた。
頭に浮かんだ疑問は気にしないことにして、ページを先に進むことにする。
二人が沈黙してから少し経ったところで獏良の手が止まった。
何かがおかしい。
記憶を辿りながらアルバムを見ていたのだが、記憶と写真に食い違いがあった。
今開いているページになると獏良の記憶は明瞭で、写真を見るだけですぐに当時のことが思い出せた。
しかし、何かがぽっかりと抜け落ちているのだ。
あるはずのものがない。
不意に浮き彫りになった違和感。
獏良の記憶に間違いなければ、写真が僅かに足りない。
前後のページを行ったり来たりして、先ほどまでよりも丁寧に記憶を辿る。
こうしてアルバムを見なければ、思い出すこともなかった些細な記憶。
あれは……旅行、といえるものだったのだろうか。
観光旅行であったなら、もっと強烈な印象が残っているはずだ。
覚えているのは、自然に囲まれた小さな村。
遠景には折り重なるように山が連なっている。
滞在場所は宿泊施設ではない。
民家だ。昔ながらの木造建築だったはず。
板張りの廊下を歩くとギシギシ軋んでいた記憶があるからそうに違いない。
自宅にはない即席の楽器を鳴らすのが楽しくて、廊下を何度も踏んで遊んだことははっきりと覚えていた。
とすると、やはり旅行というよりは、誰かの家に滞在したという方がしっくりくる。
「誰か」とは、親戚だろうか、それとも知人だろうか。
少なくとも獏良にはそんな場所に住む親戚に心当たりはなかった。
それでは、父親か母親の知人宅だったのではないか。
どのような理由で滞在したのかは、さっぱり思い出せなかった。
滞在理由を理解しないまま親の都合で連れていかれた可能性もある。
滞在期間は一日や二日ではなかったはず。長期休みのときだったのだろう。
春休み、夏休み、冬休み……ゴールデンウィークもある。
その時の服装は……半袖だった。
ある年の夏休み、獏良は住み慣れた町を離れ、緑豊かな小さな村にしばらく滞在したのだ。
村の周辺は小高い山と森に囲まれ、民家よりも田畑が多く目立っていた。
近所に獏良と同じ年頃の子どもは見当たらなかった。
昼間だというのに、家主も両親も家にはいなかった。
理由は定かではないが、子ども心に大人の邪魔をしてはいけないという意識を持っていたことは覚えている。
夏休みの宿題は順調に進んでいて、すぐに暇になってしまった。
遠くまで行かなければ、一人で外に出てもいいことになっていた。
だから、一人で村を駆け回って遊んでいた。
なにしろ都会にはないものがたくさんある。村の中のものを見て回るだけで楽しかった。
水棲生物が潜む田んぼ脇の小川や山の麓にある寂れた神社が特にお気に入りだった。
畦道を走るとアスファルト舗装された道とは異なる土を踏む感触が心を躍らせる。
弾んでチャリチャリと音を鳴らしながら、頬で風を受ける心地良さを知った。
風が草花や土の香りを運んできて空気にも味があることも知った。
今日は神社の裏手から続く山道を歩いてみようと気の赴くままに足を向けた。
山道といってもほとんど人が訪れない場所。辛うじて細く地面が剥き出しになっているだけの獣道といった方が適切かもしれない。
周りは鬱蒼と木々が生え、草花が侵食し、ところどころ道が途切れているところもある。
道から外れないように注意をして先へ進む。
親に遊びに行ってもいいと許可された近場に、この道は当て嵌まらないかもしれない。
しかし、遠くに行かなければ大丈夫だろうと、獏良はすぐに思い直した。
山深くまで入るつもりはない。夕方までには戻るつもりでいた。
時折現れる傾斜が天然のアスレチックのようで面白い。
道に足場もなければ手摺もない。足元が危うい場所は木の幹を頼りにする。
一端の冒険家気取りで山道を進んだ。
葉の擦れる音の他には虫や鳥の声しか聞こえない。
世界にたった一人になってしまったかのような気さえする。
窮屈な地元では味わえない解放感で満たされていく。
しばらく進んだところで凹凸が目立つ急勾配に道を阻まれた。
地に這う弦をロープ代わりに掴んで登る。
手を地面に突いたら負けというルールを勝手に作った。
時間をかけて危なげなく上まで登りきることができた。
難所を登りきった達成感で荒く息をしながら口が緩む。
そろそろ戻った方がよいのかもしれない。
空は背の高い木々が覆い隠してしまい時間が分かりにくい。
初めて獏良は後ろを振り返った。
それまで前へ進むことに集中していた。一度も転ぶことなくここまでやって来たが、注意が他に向いたことで足元が疎かになってしまった。
疲労が溜まっていたことも少なからず影響していたのだろう。
ずるりと足が地面を滑り、獏良の身体が後方へ傾いた。
慌てて手を伸ばしても空を掴むだけ。
あれよあれよという間に獣道から斜面へ転げ落ちた。
地面と空を覆う枝葉が獏良の視界に目まぐるしく交互に映り、途中でふつりと消えた。
獏良は目を開け、地面に大の字になって倒れていることに気づき、足を踏み外したことを再認識した。
幸い大きな怪我はしていないようで、難なく立ち上がれた。
服は上着もズボンも泥だらけになってしまっている。
岩に叩きつけらなくて良かったと息を吐く。
問題は……。
目の前に立ち塞がる急斜面を獏良は見上げた。
獏良の身長の倍はある高さで、雑草が申し訳程度に生えている。
高さも角度も先ほどの難所とは比べ物にならない。
子どもの目からは崖にすら見えた。
この急斜面を転がり落ちてきて、コブのように隆起した地面に受け止められたのだ。
すぐ後ろは急斜面が続いている。
運が悪ければ、もっと下へ転がっていたかもしれない。
まったくの垂直ではないので登れなくもなさそうだが、掴むものが地面の凹凸だけでは心許ない。
まさか雑草に頼るわけにもいかない。木が生えていれば足場にもできるのにそれもない。
獏良が立っている場所を除くとあとは斜面が続くだけ。迂回する道もなかった。
道なき道をさらに下って迷うことも怖い。元の道に戻るには目の前にある急斜面を登らなければならない。
獏良はまだ成長期を迎えておらず、身長は前から数えた方が早かった。
三メートルもない斜面が途方もない高さに思える。
待っていても助けは来ないだろう。
ぐずぐずしていると日が暮れてしまう。
木々の間から漏れる光が先ほどより弱まっているように感じた。
斜面に手を置き感触を確かめる。
土は硬く水気も少ない。滑る心配はなさそうだ。
それでも、本当に大丈夫なのかと獏良の胸に不安が過った。
「おい」
突然、頭上から声が降ってきた。
見上げると、小さな頭が斜面の上から覗いていた。
日の射さない場所で顔には影が落ちている。
聞こえてきたのは子どもの声だった。
「おい、大丈夫か」
もう一度、子どもが声をかけた。
口調で判断すると、少年だろうか。
「う、うん!」
現れた一筋の光明に慌てて獏良は答えを返した。
誰も助けに来ないと思っていたのに。
「怪我はないか」
「ないよ」
「まだ歩けるか」
「大丈夫」
今の今まで切羽詰まっていて気づく余裕すらなかったが、獏良はずっと心細かったのだ。
言葉を交わすことで緊張が和らいでいった。
「この上の傾斜は大したことはない。ここまで上がれば、すぐに元の道に戻れる。登ってこい」
少年は高い声には似合わない厳しい口調で言い切った。
「え……」
「指示してやるからよじ登れ」
獏良がまごついていると追い討ちをかけるように声が降ってきた。
結局自分で登るしかないのかと、獏良は手を斜面にかけた。
もう汚れてしまっているから躊躇う必要はない。身体をぴたりと斜面に寄せ、少しずつ這い登る。
凹凸した表面が手や足をかけるのにちょうどいい。
子どもが「もう少し右に行け」、「手を左上に乗せろ」と的確に指示を出すので、獏良は手足を動かすことだけに集中できた。
口調は厳しいままなのに、飽きずに声をかけ続けている。
初めのうちは愛想のない声に不満を感じていた獏良も、半分まで辿り着く頃には励まされていた。
「あと少しだ。だが焦るなよ」
手元を見るのに精一杯で上を見ることはできない。声だけが頼りだ。
何度か足を滑らせたが、「しっかりしろ」という言葉に動揺せずに済んだ。
しばらく登り続けていると、右手が斜面ではなく平らな地面に触れた。もうすぐゴールに辿り着く。
はやる気持ちを抑え、少しずつ足を踏み外さないよう慎重によじ登る。
手は茶色に染まり、爪の中まで土が入り込んでいた。
きっと全身泥だらけになっているのだろう。自分の姿など気にしてはいられない。
どんなに汚れたとしても、帰ったら風呂に入ればいいだけだ。
上にいる少年はなぜ手を貸してくれないのだろうと、泥だらけでしがみつく獏良に不満が少しだけ生まれた。
落ちないよう必死になっている獏良にとって、声をかけるだけの存在が他人事のように思えてしまったのだ。
手を差し伸べてくれたら、引き上げてくれたら、どんなに楽ができるだろう。
しかし、ここまで絶えず声をかけて励ましてくれているのも事実。
現に今も「落ち着け」と声が聞こえる。
この声がなければとっくに諦めてしまったかもしれない。
獏良は不満を頭から締め出し、登ることだけに集中する。
「ぐっ……」
「もっと力を入れろ」
地面に頬を擦りつけ、ようやく上半身を上に乗せられた。
口の中にじゃりじゃりと砂が混じってしまっても気にする余力はない。
匍匐前進するように腕を交互に動かし、やっと急斜面を乗り越えることができた。
獏良はしばらく地面に腹這いになったままで息を切らしていた。
このまま日が暮れるのを待つわけにはいかないと、震える足を叱咤してよろよろと立ち上がる。
まず、声をかけてくれた少年に礼を言わなくては。
顔を上げると、そこには誰もいなかった。
緩やかな傾斜がずっと続いているだけだ。
木や草が生い茂ってはいるものの隠れるほどの場所はない。
今の今まで声をかけていたのだから、どんなに急いでも姿形が見えなくなるほど先へは行けないはず。
少年は煙のように消えてしまった。
獏良は呆然とその場に立ち尽くしていた。
どうやってその場所から滞在先へ戻ったかは覚えていない。
記憶に残っていないということは、取り立てて問題はなく順調に戻れたのだろう。
親に泥だらけの姿を叱られた記憶はあるが、夢中になって遊んでいたのだろうと結論づいたはず。
同じ年頃の子どもが近所にいないか尋ねてみたが、周囲の大人は首を横に振るばかりだった。
あんな山道に入り込むのは地元の子どもしかありえないはずなのに。
獏良は釈然としない気持ちを抱えつつも、ひと夏の思い出として胸にしまい込んだ。
少年に礼だけは言いたかったと未練だけを残して。
アルバムを見るまでは思い出さなかったくらいのほんの小さな思い出だ。
それまで回想に耽っていた獏良はアルバムから目を離した。
「なるほど」
少年は手を差し伸べなかったのではなく、差し伸べられなかったのだ。
「君だったわけか」
あの時も服の下で千年リングは微かな音を鳴らしていた。
一人でもついて回る金属音が寂しさを感じさせなかった。
「さあな」
バクラは事あり顔で笑うだけで答えなかった。
あの頃から一人ではなかったという事実を獏良は冷静に受け止めていた。
どうりで途中から静かになったわけだ。
そして、それ以上バクラを問い質すことはせずに一言だけ口にした。
「ありがとう」
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小さい頃から何度も助けてあげていたらいいですね。