ばかうけ

代わり映えしない下校風景。
獏良は寄り道をせずに友人たちと別れた。
通学路はいつも通り。授業もいつも通り。友人たちとの会話もいつも通り。
城之内がクラスメイトとふざけている最中に教室のドアに突っ込んだ以外には事件もなく、今日も一日平和だった。
マンションに着き、エントランスにあるポストを確認する。不動産と出前の広告が数枚。
内容を確認せずにまとめて掴んでエレベーターに乗り込む。
マンションの住人に会うこともなく、自宅のドア前に辿り着く。
空はまだ明るい。薄い雲が点々と浮かぶ青空が広がっている。
獏良の心情をそのまま空に映し出したような天気。
鍵を鍵穴に挿し込んでゆっくりと横に倒す。
カチリと容易く鍵が開き、獏良はノブを回してドアを引いた。
しっかりと戸締まりがされている部屋の中は暗い。
玄関の中へ足を踏み入れる。
たった二歩。右足と左足を動かすだけ。
それなのに重く感じた。
足が地面から離れることを嫌がっているようだった。
疲れてもいないのになぜだろうと獏良は疑問を持ちつつも、後ろ手にドアを閉じた。
重々しい音と共に外光が遮られる。
途端、ふらふらとゆらゆらと船に揺られているような、浮動性の目眩を獏良は感じた。
その場に立っていられずに左右によろめき、額を手で押さえる。
――そうか……。
今日も平和な一日だった。家に帰るまでは。
靴箱に手をついて倒れないように身体を支える。
しばらくそうしていると、目眩が少しずつ引いていった。
獏良は額から手を離し、玄関続きの暗い廊下を見据えた。
――また、帰ってきてしまったんだ……。
目眩が完全に治まり、先ほどより鮮明に働き始めた獏良の意識は、これ以上ないほど事態を把握していた。


漆黒の別離わか


獏良は重い足取りで廊下を進んだ。
ダイニングテーブルの椅子に鞄を置き、上着を脱いだ。
シャツの下で千年リングがシャランと音を立てる。
晴れ晴れとした表情は獏良から消え失せ、今は暗い影が落ちている。
千年リングは邪悪な意思が宿る古代遺物。
獏良の意識を乗っ取り、周囲の人間を手駒に変えていた。
遊戯の千年パズルを狙い、繰り広げられた闇のゲーム。
遊戯を始めとする友人たちも、宿主である獏良も、命の危機に瀕した。
闇遊戯が勝利したことで、すべてが解決した。
邪悪な意思は、心を入れ換えて永遠の眠りに就くことを望み、遊戯に力を貸している。
――そう思い込まされていた。
本当は何も変わっていない。
バクラの企みは不明だが、心を入れ換えたなどというのは大ウソだ。
千年リングを身につけていることがどんなに危険なことか、獏良は重々承知している。
しかし、この部屋を一歩出ると忘れてしまうのだ。
千年リングが危険なことも、依然としてバクラの支配下にあることも。
単純に記憶を失うわけではなく、千年リングに対する負の感情を失う。
恐怖や怒りは薄れ、霧の彼方へと去ってしまう。
外にいる間は千年リングを身につけていることに疑問を持たず、バクラはもう悪意を持っていないと信じ込んでいる。
家の中では正気を保てる。それは獏良にとって苦痛でしかなかった。
無責任ではあるが、いっそのことお気楽な気分のままでいられた方が幸せだ。
家に帰る度にこの状況を思い出し、どうにかしなくてはと悩む。
しかし、悩んだところで何も解決はしない。
遊戯たちに連絡を取ろうとしたり、悪事の証拠を残そうしたりすれば、バクラにあっさりと乗っ取られてしまう。
二十四時間バクラの監視下にあるのだから、逃れることはできない。正気に戻ったところで何もできない。
まるで手足を縛られて目の前の惨劇を見続けろと言わんばかりだ。
なぜ、わざと少しばかりの自由を許すのか。
悪趣味だと獏良は思っていた。
「あんな目」に遭わされておきながら、外ではへらへらと笑っているなんて信じがたい事実だ。
胃は空っぽのはずなのに食欲はなかった。キッチンで水を汲んで喉を潤す。
部屋の中で獏良に許されているのは、日常生活を送ることだけ。監禁されているようなものだ。
結局、獏良は食事を取らずに、出された数学の宿題に取りかかることにした。
「宿主サマは毎日飽きもせずに学校に通って、こうして宿題もしてエラいなァ」
机に向かう獏良の頬や顎を病的なまでに白い手が後ろから撫でる。
いま解いているのは最終問題。解答欄に導き出した答えを書き込めば終わりだ。
それを知っての行動に違いなかった。
獏良は改めてバクラから逃れられないことを思い知らされる。
――また、始まる……。
これから起きることを想像し、足元から寒気が這い上る。
自然とペンを握る手に力がこもった。
「今日も遊ぼうぜ」
嫌だと言い返すことは許されていない。
解答欄に最後の答えを書き入れ、獏良は目を閉じた。
閉ざされた部屋の中で行われているのは、どの世界でもよく見られるマウンティング行為だった。
立場が上であることを誇示する効果的な方法。
苦痛の時間だった。
声を出す間もなく床に組み敷かれ、身体中を手と舌が這い回る。
抵抗すればもっと酷い目に遭わせられるのは経験済み。
だから、黙って耐えるしかない。
目を瞑ることも許されない。そんな些細なことも「抵抗」と見なされる。
獏良は荒い息遣いを聞きながら、早く終わって欲しいと祈り続ける。
身体を撫でられる不快感と割り入られる痛みは、いつまで経っても慣れない。
バクラが獏良に対して遠慮をするはずもない。思うままに獏良を征服する。
下手に警戒して身を固くしているよりも、余計なことを考えずにいる方が少しだけ痛みが和らぐことを覚えた。
頻繁に行われているこの苦痛さえも、外に出ると忘れてしまう。
どんなに乱暴にされても、肉体を介さない行為の痕が残ることもない。
毎日家に帰ってからすべてを思い出すのだ。
獏良は二人きりの空間で、誰か助けてと声なく叫んでいた。


「オトモダチにお前のこの姿を見せてやりてぇな」
その日も床に就こうとしていたところをバクラに捕まった。
友人のことを持ち出され、獏良の身体がびくりと跳ねる。
衣服は剥ぎ取られ、玩具のように扱われている姿を、大切な友人たちに見られたくはない。
もちろん、動揺させて楽しんでいるだけだと獏良は分かっている。
それでもかけがえのない友人のことを持ち出されると反応してしまう。
バクラは獏良の触れられたくない部分をよく理解してわざと口に出す。
「ほら、お前のココ。赤く腫れ上がってるぜ」
獏良は歯を食い縛り、顔を覆いたくなる衝動を懸命に抑えた。
どうにか恥辱まみれの時間をやり過ごしたい。
目を瞑ることも、耳を塞ぐことも禁じられた状態で、獏良にできることは一つしかなかった。
獏良は現実から目を背け、楽しい思い出に浸り始めた。
小さなことでいい。幸せなことを頭に思い浮かべれば、嫌なことから逃れられる。
目を瞑らなくても夢の世界に浸ることはできる。
当然のことのように自然と思い出の世界へ没入できた。
もしかしたら、終わらない苦痛から逃れるための防衛本能が働いたのかもしれない。
――先週みんなと行った水族館楽しかったな……。
獏良と瓜二つの容貌は見る影もなく、醜悪な笑みを浮かべて獏良を見下ろしている。
獏良の虚ろな視線の先はそれを通り越し、夢の世界へと向けられている。
抵抗はしない。今だけは好きにすればいい。
獏良の手足から力が抜け、無防備な身体がバクラの前に横たわる。
蝋のように白い肩にバクラの唇が触れた。
隙間から現れた真っ赤な舌が肌にへばりつく。
軟体動物を彷彿とさせるねっとりとした動きで肩を刺激する。
規則正しく並んだ門歯が蠢く舌を覆い隠す。
始めこそ肌に立てられた歯は、舌を囲っているだけだった。
甘噛みに近いむず痒いだけだった感覚が次第に変化していった。
歯が少しずつ肌に食い込んでいき、
「いっ……!」
しまいには皮を突き破った。
獏良は疼く痛みに夢の世界から現実へと引き戻される。
右肩は赤く染まっていた。
白いキャンバスに真っ赤な絵の具が落とされたよう。
「うぅ……」
獏良は痛みのあまりに悲鳴を上げることもできない。
呻き声と共に息を吐き出すのが精一杯だ。
バクラの腕を掴み、言葉の代わりに苦痛を訴える。
その間も容赦なく柔らかな肌に鋭い歯が食い込んでいく。
獏良が何度も腕を引き、バクラの口が離されたときには、行儀よく並んだ歯型がくっきりと残っていた。
血液が細い筋となって肌に刻まれた歯型から溢れ出した。
「ど、うして……」
逆らわなければ、バクラの怒りを買わなければ、手酷い折檻はされないはずだった。
乱暴に抱きはしても、傷つけることは稀なこと。
「どうして?」
バクラは獏良の言葉をなぞり、口の端を吊り上げた。
口周りも、白い歯も、赤く染まっている。
微笑が哄笑の形になり、喉の奥から歪な笑い声が暴力的なまでに獏良に降り注いだ。
獏良の耳の中で笑い声がわんわんと響く。
堪らずに耳を押さえようとしたところで、バクラに唇を塞がれた。
生臭い鉄に似た味が獏良の咥内に広がる。
押しつけるように深く唇を吸われた。
――どうして……。
二回目の問いかけは声にすることもできず、薄暗い時間は過ぎていった。


獏良は起床をしてすぐに洗面台に向かった。
鏡の前でシャツの襟首を引っ張り、剥き出しの右肩を確認する。
昨晩つけられた歯型はどこにもない。
肉体のないバクラにいくら抱かれても行為の痕は残らない。傷痕も同じこと。
実際にバクラがつけた傷以外は、獏良の身体に残っていない。
それなのに、今もずきずきと右肩が痛む気がした。
「どうして?」
鏡に映る自分自身に向かい、獏良は昨晩の疑問をぶつけた。
一時的ではあるが、理不尽な責め苦を受け入れていたではないか。
バクラがなぜ凶行に及んだのか、獏良にはまったく理解ができなかった。
大人しくしていれば、必要以上に傷つけないのではなかったのか。
獏良はあるはずのない痛みが和らぐよう右肩を撫でた。
「痛いよ……」


「獏良くん、大丈夫?顔色が悪いよ」
教室で獏良の顔を心配そうに遊戯が覗き込んだ。
「そう?」
獏良はきょとんと首を傾げる。
「昨日夜更かししたからかなあ」
呑気に笑う獏良を見つめる遊戯の顔は曇ったまま。
「もしかして、また千年リングが……」
「ないない。もう平気だよ」
顔の前で手をぱたぱたと振る獏良の顔には翳りはない。
いくら事情を知る遊戯でも、拭えない不安を胸に置いたままで、それ以上は何も口にすることはできない。
外にいる間の獏良は本当に「平気」なのだから、自宅での惨状を誰も想像しない。
少し眩暈がするのは寝不足のせいと、本人さえも信じている。
そうして鼻唄を口ずさみながら自宅に帰り、現実を愕然と受け止めることの繰り返しだ。
獏良は部屋の中で額に手を当て、教室で心配してくれた遊戯に届かない謝罪を述べる。
「ごめん……本当にごめん……」
ふらふらと冷蔵庫の扉を開け、牛乳パックを取り出す。相変わらず食欲はない。
食器棚から出したガラスのコップに牛乳をなみなみと注いで食卓へ運ぶ。
遊戯が心配するのも無理はない。
睡眠は取っているものの、本当に休めているのかは疑問だった。
水分だけでも摂らなくてはとコップを持ち上げ――。
コップがつるりと手から滑り落ちた。
落ちたコップはテーブルに倒れ、中身を吐き出しながらごろごろと転がり、端まで辿り着くと床まで落下していった。
続いてガラスの弾ける音が鳴る。
その音を聞きつけたバクラが、千年リングの中から飛び出した。
バクラの目の前に現れた光景は、テーブルに撒き散らされて今もぽたぽた床に滴り落ちる白い液体、床で原型を留めていないほど粉々になったガラスの破片、テーブルに寄りかかって床に座り込む獏良の姿だった。
「おい!」
獏良の視界は揺らいでいて、目の前に現れたバクラの姿も磨りガラスの向こうにいるように見えた。
「ん、あ……ヤだな。牛乳か……。まいったな。臭いが残っちゃう……」
目の焦点が合わないままに床を這い、
「片づけなきゃ……」
ガラスの破片に手を伸ばした。
「やめろっ」
バクラが制止したときには、獏良の手の中に一欠片が収まっていた。
欠片を掴む人差し指に、音もなく赤い線が走った。
「なにやってるんだ」
怒鳴りつけるバクラに、ぼんやりとした視線が返される。
その顔を目の当たりにして、ぎくりとバクラの肩が震えた。
獏良の顔は紙のように白かった。
元々の白い肌よりも目に見えて色がない。生きているのが不思議なほど。
バクラを見つめ返す瞳と切れた人差し指の血の色だけが鮮やかだった。
「え?」
「指が切れちまってるじゃねえか」
獏良の視線に合わせてバクラは身を屈めた。
いくら怒鳴り散らしても今の獏良には無駄と、声の調子を落とす。
「本当だ」
獏良は他人事のように視線を指に落とした。
その様子にバクラはぎりりと歯噛みをする。
器である獏良の不調に気づけなかった。
精神的に追い詰めても壊さないように気をつけていたはずだった。
獏良の心に干渉している時点で負担をかけていることは充分承知していた。
しかし、バクラと人間の感覚はあまりにかけ離れている。
人間にはすぐに分かる体調の変化が、バクラにとってはまるで難問のようだった。
獏良の限界を読み違えてしまったのだ。
「おかしいね」
獏良は額に玉の汗を浮かべ、言葉を切れ切れに発する。
「僕がどうなってもいいんだと思ってたけど、こんな小さな傷は気にするんだ」
青褪めた顔は今にも気を失ってしまいそうだった。
それなのに、口元だけは笑っている。
「もう休め」
獏良の顔を直視しないようにバクラは目を伏せる。
体調不良とはいえ、へらへらと笑っている顔は薄気味悪いと思った。
向けられるはずの表情は、もっと悲しみや怒りが込められているもののはずだ。
獏良は言われるがままにベッドへ向かい、泥のように眠った。
寝顔を傍らで見下ろしながら、バクラは小さく舌打ちを鳴らした。
どうして気づかなかったのかと忌々しげに。


その後三日間、獏良の生活は平穏そのものだった。
外に出れば不安や恐怖が薄れてしまうのは変わらないが、バクラからそれ以外の干渉はなかった。
お陰で今の生活についてゆっくりと見つめ直す時間ができた。
絆創膏の巻かれた人差し指をじっと見つめる。
怪我をしたときには、まったく痛みを感じなかった。
思い出せるのは、夢の中にいるような、ふわふわと地に足がついていない感覚だけだった。
一晩寝て食事を取ったところで体力はだいぶ回復し、翌日は休日だったことも幸いした。
獏良は傷を刺激しないように絆創膏をゆっくりと剥がした。
指の腹の端から端まで横一文字についた傷。
たったこれだけの傷をバクラは気にしていた。
おかしい話だ。左手や胸に傷をつけておいて、小さな切り傷を気にするとは。
放っておいても構わないはずだ。
バクラにとって予定外の傷は困るということなのだろうか。
その前に突然噛みつかれたことも引っかかっていた。
傷つけたり、傷つくのを止めようとしたり、バクラの行動は不可解そのもの。
支配するだけでは飽き足らないのか。
抵抗してもしなくても暴力を振るわれるのは、あまりにも理不尽。
ただ操っているだけでは……。
――どうして……。
獏良は再び浮かんだ疑問を口に出さずに心の内にしまい込んだ。


「もう問題ないようだな」
ベッドに横になった獏良にバクラが馬乗りになって細い顎を掴んだ。
粘りつくような視線を獏良へと送る。
いつも通りであれば、獏良は大人しく身を差し出すだけだった。
ボタンにかけた手を獏良の両手が掴んだ。
「なんの真似だ」
少し気を遣ってやれば抵抗する余地を与えてしまうのかと、バクラはやや傲慢な思考で獏良を睨みつけた。
しかし、獏良の目つきにその傾向はない。
「君は僕に何を望んでいるの」
獏良は威嚇を物ともせずに、ただバクラを見上げて問いかける。
「僕は君の思うままにされてきた。これ以上は君の望むようにはできない」
「お前、自分の立場分かってんのか」
バクラの声は険しく、視線だけで獏良を責め立てていた。
負けずに獏良も目に力を入れて応じた。
「抱きたいなら抱けばいいさ。支配したいならすればいい。でも、君の勝手には付き合いきれないって言ってるんだ」
「うるせえ!」
獏良の手が振り払われ、勢いのままに寝間着のボタンが引き千切られた。
白い胸には半円を描いて並ぶ五つの小さな傷痕。
「見て。君がつけたんだ」
傷口は完全に塞がってはいるが、他の部位と比べると明らかに色がくすんでいる。
傷痕を見つめるバクラの目から怒りの色が少しだけ薄れた。
「君がつけたんだよ」
獏良がもう一度念を押すように言い聞かせた。
今度はバクラに人差し指が突きつけた。
指の腹には薄く線が刻まれている。
「これは僕がつけた傷」
まだ新しい傷は力を入れれば、また裂けてしまうそうだ。
「痛むのか」
「少し」
バクラは躊躇いなく獏良の指を口に含んだ。
舌が傷口を丹念に撫でる。
「痛いんだ」
獏良の言葉に温かい粘膜が一層優しく指を包み込む。
――傷つけたと思えば、こんなことして。
指を口に含んでいる間も、バクラは獏良を凝視している。
力強い眼差しは外れることもなく獏良に注がれている。
――ああ、これだ……。
獏良は肩を噛まれたときのことを思い出していた。
噛まれたのは獏良の意識がバクラから遠ざかったときだ。
そっぽを向くことは許さないと無言で訴えるかのように。
こうして視線を返していれば、暴力を振るわれることはない。
獏良に一つの疑問が湧いていた。
なぜ、バクラは獏良の感情すべてを操らないのだろうか。
獏良はすべて操られてしまった方が楽だと思っていた。
それはバクラにも当て嵌まること。
家にいる間だけ元の状態に戻すのは、まどろっこしいやり方だ。
生かさず殺さずといってしまえば残酷に聞こえるが、バクラにとって利点はない。
利点がないことをバクラがするはずはない。
今までの行動を見ていれば、獏良でも分かる。
バクラは動く理由がなければ動かない。一つでも理由があれば動く。
ある意味分かりやすい考え方だ。
ゲームマスターを自称するバクラは人間よりもルールに忠実だ。
普通の人間であるなら、感情が複雑に絡んでルールに従えないことは多々ある。
感情は矛盾を生んでしまう。
一時の感情で法を犯してしまう者がいるように。
人間ではないバクラは、感情に流されて行動はしない。
しかし、獏良に対するバクラの行動は矛盾だらけだ。
そこに感情が絡んでいるとすれば――。
――僕に対して何を思っているの。
自分の在り方を曲げてまで獏良にぶつけるもの。
まるで人間よりも人間らしい行動。
どんな感情が動いているのだろうか。
獏良は問いかけてみたいと思った。
しかし、一度口にしてしまえば、辛うじて保っている二人のバランスが崩れてしまいそうでできない。
問いたくても問えないもどかしさに、獏良の胸が締めつけられた。
「痛い……」
バクラの唇が指を離れ、今度は獏良の唇へ向かった。
指も心もジンジンと痛み続けていた。
触れられている唇が熱い。

――どうして、キスするの。
――どうして、僕は僕のままでいなきゃならないの。
――君は、僕のことをどう思っているの。

問いかけることも、答えを聞くことも叶わないまま、
やがてバクラは傷痕を残し、獏良の元から去っていってしまった。

(後編へつづく)

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交わらない二人の心。
後編は原作終了後の捏造になります。

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