「やあ、久しぶりだね」
相手の顔を見るのはもちろん、声を聞くのも久しぶりだ。
久々の友人の顔に獏良の口元が自然と綻んだ。
「元気そうで安心したよ。藍神くん」
艶やかな濃紺の髪に琥珀色の深い瞳、目鼻立ちがはっきりした褐色の肌の青年。
高校卒業前に起こった事件の中で知り合った友人だ。
当時、藍神は獏良を師の敵と信じて疑わなかった。
紆余曲折を経て誤解は解け、藍神が母国に戻るまでの数日間で二人は仲を深めた。
獏良の模型趣味が藍神の目には新鮮に映り、藍神の古代文明や超自然の知識は獏良の好奇心を大いに刺激した。
まるで何年も前からの友人のように語り合い、連絡先を交換して二人は別れた。
藍神が帰国した後も連絡を取り続けている。
ただし、藍神がいる地域は通信整備が不充分。連絡を取りたくても取れないことが多い。
藍神はかつて師によって救われたように、身寄りのない子どもたちのために奔走しているのだ。
必然的にやり取りのほとんどがメールになる。そのメールの返事も気長に待たなくてはならない。
だから、藍神がビデオ通話のできる場所にいるときは、こうして欠かさず連絡が来るようになっている。
時差を計算してみれば、わざわざ獏良に合わせていることも分かる。
前回話したのはバクラがこの家に来て間もない頃だと獏良は記憶していた。
なにしろ慌ただしい中でじっくりと話すことができなかったのだ。
画面越しに二人は近況報告をし合った。
藍神は露店で手に入れた出来の悪いスフィンクスに象形文字が描かれた怪しげな置物を掲げ、獏良はTRPGで使うドラゴンの新作フィギュアを披露した。
「やはり、君は凄いな。僕にはとてもできないよ」
「ありがとう。気に入ってくれて。君はまた面白いものを見つけてきたね」
「今度他のものと一緒に送るよ」
藍神と雑談をしていると獏良の心が少し軽くなっていくような気がした。
普段気を張っている分、些細なことで笑い合うことが救いとなる。
藍神は遊戯たちとはまた異なる角度で獏良の事情を知っている。
古代遺物についての造詣も深い。
相談するのに打ってつけの人物だ。
悩んだ末に獏良はバクラのことを話さないことにした。
藍神にとっては嫌な記憶を呼び起こすことになるだろう。
いつか話すにしても、画面越しで打ち明けられるような内容ではない。
今はこうして他愛ない話ができるだけで充分だ。
デュエル大会に出場した城之内の話題に移り、二人とも口を開けて笑った。
「ところで、何か悩みごとでもあるのかい?」
それほど顔に出ていただろうか。
突然の指摘に驚いた獏良は口元を手で覆った。
「前に話したときも少し元気がないようだったから」
藍神が画面の向こうから気遣いの声をかけた。
出会ったときは敵意を剥き出しにしていたが、今では獏良に温情のこもった瞳を向けている。
本来の藍神の気性は素直で一途だ。師からはそれを窘められたこともあるらしい。
藍神本人も今でも未熟なままで直らないと言っている。師のようにはなれないと。
獏良は藍神の一途な気性は長所だと思っていた。
真っ直ぐに気持ちをぶつけられることは不快にはならない。
遠巻きにされるよりずっと心地良い。
過去に周囲から疎まれた経験がある獏良だからこそ思えることだ。 だから、馬が合ったのかもしれない。
藍神は押し黙ってしまった獏良を追求することなく、揺るぎなく見つめる。
すべてを話して楽になってしまえ。
もう一人の獏良が甘く囁く。
――それは、ダメだ。
浅薄な思考をすぐに否定する。
話すのなら然るべき時と場所を選ばなくてはならない。
獏良は既の所で言葉を呑み込んだ。
大事な友人を勝手な事情で傷つけたくはない。
代わりに一つの疑問が浮かんだ。
今度は静かに息を吸い、藍神に向かって吐き出した。
「罪を償うにはどうすればいいと思う?」
獏良の唐突な問いかけを藍神は冷静な表情で受け止めた。
「難しい質問だね」
奇しくも再び現世に戻ってきたバクラ。
記憶を失って右も左も分からないまま打ち捨てられた姿を見ていると、これは罰ではないかという考えが獏良の中に生まれていた。
そして、自分への罰だとも思った。
身に盗賊の魂を宿しながら何も出来なかった不甲斐ない自分への。
藍神は獏良を見つめたまましばらく黙り、やがてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「過去に犯した過ちは消せないと思う。やり直しなんて利かないからね。過去はどうすることもできない。償うなら未来に向けてだ」
藍神の口調は朗々としている。かといって傲慢な響きがあるわけでもない。獏良の耳にすんなりと届く。
それは藍神自身も過去に過ちを犯しているからだ。
経験しているからこそ言えること。誰よりも説得力がある。
藍神は言葉を区切り、少しだけ表情を緩めた。
「だから、僕も今の僕にできることをやっているんだ。僕やセラのような子どもを増やしたくはない。救ってやりたい。これが僕の償いだ。……君の質問への答えになっているかな?」
言い終えた後、照れ臭そうに笑った。
「うん、ありがとう」
二人は二、三会話を続けた後、惜しみつつも通話を終了した。
獏良はパソコンの電源を落とし、椅子に座ったまま頭の中で藍神の言葉を反芻する。
――未来に向けて、か。
いつまでも過去に縛られてはいけない。まずは目の前にいるバクラのことを考えなくては。
そう思いつつも、胸の奥に刺さったままのトゲは抜けていない。
藍神のお陰で幾分か心は軽くなった。
あとは、バクラに過去のことを打ち明けるべきか、否か――。
もしかしたら、打ち明けない方がお互い幸せなのかもしれない。
椅子から立ち上がり、自室のドアに向かった。
ドアを開けると、バクラが正面に立っていた。ほんの数歩先の距離だ。
「わ、ごめんね。長話しちゃってた」
ゲーム以外の用事でバクラが動くことは珍しい。
獏良は驚きで一旦足を止めるも、後ろ手にドアを閉めた。
「待たせちゃったね。この前のデュエルの続き……」
「友だちってアイガミって奴か?」
獏良の言葉を遮り、バクラが鋭い視線を向けた。
バクラが現世に戻ってきてから、藍神はおろか、遊戯たちとも獏良は会ってはいない。
「友だち」と言っただけで、なぜ相手が分かったのか。
獏良は驚きのあまり頓狂な声を上げ、どういうことかと頭を捻った。
バクラが戻ってきてすぐの頃、藍神と先ほどのように話したことを思い出した。
ビデオ通話をしているのは藍神だけだ。
父親が海外に出張している際も同じようにするが、ここ半年間は日本に留まっている。
それから何回かメールのやり取りもしている。その中で何気なく名前を出したのかもしれない。
――それだけで分かったの?
バクラはすべてにおいて興味なさげに外を眺めているだけだった。
獏良の交遊関係など気にも留めていない印象だった。
それを急に口にするとは、どういうことなのだろうか。
獏良がバクラの真意を掴みかねていると、バクラは出し抜けに距離を詰めた。
勢いに気圧されて獏良が後退ろうとしても、背中にはドアがある。
硬い感触が空しく背中を叩くだけだった。
息がかかるほどの距離までバクラが近づいたところで、獏良は異変に気づいた。
バクラはいつも人を寄せつけない表情をしているが、今は目の奥にギラギラと獰猛な肉食獣を思わせる狂暴な光を灯している。
「な、なに?藍神くんがどうかした?」
「そうなんだな」
目つきに対し、声はあくまでも冷静。
その齟齬が獏良を恐怖させた。
「随分と仲がいいんだな」
この場から逃げ出したいあまりにドアの表面を探り、
「家主さんとは」
冷たい金具に当たった。
藁にも縋る思いで金具を掴んで下に回す。
カチャリと音がして扉が開いた。
追い詰められた獏良を支えていたのは背中の扉。
扉という支えを失えば、言わずもがな獏良の身体は後方へ傾く。
獏良は焦るあまりにバランスを崩し、ドアを背中で押し開けながら尻餅をついた。
あまりに滑稽な行動を前にしても、バクラは微塵も表情を動かさない。
獏良の足元で身を屈めて質問を続けた。
「なあ、アイガミってお前のなんなんだ?」
「友だちだよ……」
獏良の口の中がからからと乾いていく。
「ふーん」
バクラが床にひたりひたりと手を交互につき、獏良に向かって四つん這いでにじり寄る。
「友だちねえ……」
獏良の両肩を爪が食い込むほど掴み、床に押し倒した。
床に背中と後頭部を強かに打ちつけ、獏良の顔に苦悶の表情が浮かぶ。
「そいつにもいい顔してんのか」
「何を言って……?」
「そいつにもヘラヘラ愛想を振り撒いてんのかって言ってんだよッ!!」
再会してからバクラが初めて見せる感情を剥き出しにした姿だった。
目を吊り上げ、唾を飛ばし、獏良にあらん限りの声を張り上げる。
「不平不満も言わねえで気持ち悪ぃんだよ、てめえは!聖人気取りか!」
バクラの両手が床の上で藻掻く獏良の手首を押さえつけた。
「放して。どいてよ……」
獏良の抵抗は無意味だった。
いくら逃れようとしても、バクラの身体はまったく動かない。
「他人を家に置いとくなんて、とんだクセをお持ちだな」
バクラは獏良の上着の裾を掴み、
「こういうのがお望みなんだろッ」
「やめて!」
上まで引き上げた。
服の下から現れた白く透き通った肌。
汚れもくすみもない。
胸から腹にかけて半円を描いて刻まれた五つの傷痕以外は。
傷痕は薄い小さな円状で、白い肌に目立っている。
バクラの目がその傷に釘づけになった。
「これは……」
獏良は苦しげに眉根を寄せて顔を背ける。
数年経っても傷痕は消えなかった。
バクラが消えて間もない頃は見る度に嘆き憂いた。
そのうちに失くなった千年リングを傷痕に重ねて見るようになった。
「オレなのか……」
五つの小さな傷痕を目にしたバクラの胸がちりちりと焼かれる。
精巧な彫像にも引けを取らない滑らかな肢体に影を落とす痛ましい傷痕。
明らかに異物のはずなのに、そこに刻まれていることが正しいと思えた。
傷痕の痛ましさに心が緩まる。
バクラの中に相反する二つの感情が芽生えた。
これが意味することは――。
「これをやったのはオレなのか」
獏良はぎゅっと目を瞑った。
バクラの目が押さえつけた獏良の左手に移る。
手のひらの中央にうっすらと引きつった傷痕が見えた。
「これも、か……」
記憶の蓋は閉じられたままだ。
しかし、湧き上がる感情は止められない。
いつもにこにこと笑顔の獏良。
『――そうか。君は……。僕の名前は獏良了。行くところがないなら、ここにいていいよ』
何も持たないバクラに優しく話しかけて世話を焼く。
バクラの心に自然と入り込んできた。
獏良の身体に残された二つの傷痕は、まるで付けた者の所有物である証。
「……とっくにお前はオレのものだったんだな」
「違う!」
バクラの手が顔を背けたままの獏良の顎にかかる。
力任せに獏良の顔を正面に向かせた。
否定の言葉を吐く唇を塞ごうと、バクラが顔を近づけたところで、
「やめて!」
獏良の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「君は昔の君じゃないんだ。今の君に触って欲しくない。だって、君は僕に『答え』をくれないじゃないか……」
際限なく流れる涙に、バクラは狼狽えた。
頭を殴られたような衝撃だった。否定の言葉よりもずっと。
「……僕は君のなんだったの」
獏良の目に溜まった雫が光を帯びてゆらゆらと揺れる。
顔の中心に皺が寄り、唇は小刻みに震え、獏良の表情は深い悲しみに満ちている。
獏良が喉から絞り出した声はとてもか細かった。
二人は同じ空間にいても会話をすることなく過ごした。
獏良はあんなことを言うつもりはなかったのにと嘆いていた。
ずっとバクラに訊きたかったこと。
訊けずにすべてが終わり、答えを聞く機会を永遠に失ってしまった。
いくら傷痕に気づかれて動揺をしたとしても、今のバクラに問いかけたところで、答えは返ってこないと知っていたはずなのに。
バクラに罵声を浴びせられて我を忘れたことで、図らずも心の奥底にあった望みに気づいてしまった。
すべて思い出して欲しい。自分に対する気持ちを聞かせて欲しい。
獏良は自己嫌悪に苛まれた。
バクラの吐いた「聖人気取りか」という言葉通りだと思った。
何も知らないバクラに親切な顔をしておいて、結局はそれだったのだ。
受け入れることもせず、拒絶することもせず、曖昧なままで。なんて独り善がり。
何よりバクラに感情をぶつけられるまで気づかなかったことが情けなかった。
学業や家事、アルバイトに没頭することで、なんとか自分を保っていた。
一方、バクラは部屋の隅に座り込み、獏良の問いかけについて考えていた。
『僕は君のなんだったの』
答えられるわけがない。
いくら思い出そうとしても、頭の中はがらんどうなのだ。
そもそも、以前からの知り合いだったことさえ思い出せない。
日に何回も悲しみに歪んだ獏良の顔が脳裏に浮かんだ。
あんな顔をさせるつもりはなかった。
見たかったのは……。
――昔のオレはあいつに何をした。何を思っていた。
獏良が危惧していた通り、危ういバランスの上に成り立っていた二人の関係はあっさりと崩れたのだ。
それから数日が経ち、獏良は大学の食堂で昼食を取っていた。
バクラには冷蔵庫に保存してあるおかずを好きに食べていいと以前から伝えてある。
しかし、あの一件以来ほとんど手をつけていないようだった。
注文したうどんを啜り、箸で意味もなく器の中をかき混ぜる。
謝った方がいいのかと考え込む。
切っ掛けも、謝罪の言葉も思い浮かばない。
――もしかして、向こうから謝って欲しいと思ってるのかな。僕は……。
箸を持つ手が止まった。
透き通ったスープに冴えない顔が薄く映る。
――どうしたら……。
テーブルの上に置いた携帯がぶるりと震えた。
箸を器の上に乗せ、携帯を手に取る。
画面を開くと一通のメールが届いていた。
送り主は藍神。
こんなに短い間隔で藍神が連絡をしてくることは珍しい。
それに、しばらくは連絡が取りづらくなると言っていたはずだ。
藍神に唐突な質問をしてしまったことについて礼はしたものの、説明はしていなかった。
心配させてしまったのだろうか。
獏良はごめんと心の中で謝罪しつつ、メール画面を開く。
文字を追う獏良の目が次第に大きく開かれていった。
すべてを読み終わり、短い言葉で返事を送信する。
携帯をズボンのポケットに捩じ込み、リュックを掴んだ。
うどんの乗ったお盆を返却カウンターへ戻し、食堂を後にしたところで脇目も振らずに走り出す。
足がもつれて転びそうになっても立ち止まらなかった。
早く自宅に帰らなくては。
獏良の頭の中を占めていたのはそれだけだった。
『君が何を悩んでいるか僕は知らない。けれど、気になったから連絡させてもらったよ。
僕が君を問い詰めたときのことを覚えているかい。とてもすまないことをした。
あの時は復讐に捕らわれていた。それが間違ったことだと気づくこともできなかったんだ。
君の優しさと純粋さがなければ、取り返しのつかない罪を犯すところだった。僕は君に救われたんだ。ありがとう。
だから、君は君自身の真っ直ぐな心を信じて欲しい。それは何よりの力になるはずだ』
――ありがとう、藍神くん。今度ゆっくり話をさせてね……。
バクラは窓の外を静かに見つめていた。
食欲はなく、昼食は取っていない。
この家で暮らすようになってから、獏良から様々なものが与えられた。形あるものだけではない。
獏良は見返りを求めていなかったが、一つの答えを欲していた。
それが何かは分からない。
聞かなかったふりをして、世話になりっぱなしでいられるはずもない。他に行く当てもない。
獏良の傷痕を見れば、過去に只ならないことがあったことは確かだ。 その時に自分が何を思っていたか……。
また、ちりりと頭に焼けるような痛みを感じた。
――名前さえも思い出せねえってのに。あいつの名前を聞いたときも何も分からなかった。
頭を押さえていると、玄関で物音がした。
続いて慌ただしい足音が聞こえてくる。
何事かとバクラが振り返ると、息を乱した獏良が廊下の奥から現れた。
いつもの帰宅時間よりずっと早い。
バクラの戸惑いを他所に獏良は大股で距離を詰め、
「この前はごめん!」
勢いのままに頭を深々と下げた。
「君は何も思い出せないのに、僕の気持ちばかり押しつけた」
言い終わった後も頭は下げたままだ。
「なんでお前が謝るんだよ。意味分かんねえよ」
バクラの声にこもっているのは困惑と少しの憤り。
「言葉通りだよ。悪いことをしたから謝った」
獏良は頭を上げ、荒野に咲く花のように凛とした表情を見せた。
「……なんなんだよ」
気迫に圧倒され、バクラは語気を弱めた。
獏良の言葉は歯切れが良く、言い返す隙を与えない。
「確かに君からも謝って欲しいけど、元々何も教えなかったのは僕だから。すべて分かった後でいい。分からないまま謝られても嫌だし」
獏良はソファに座るようにバクラを促し、自身はテーブルの角を挟んだ席に座った。
再び口を開いた獏良から気迫は薄れ、漂う雰囲気は静謐そのものだった。
「君はバクラと名乗っていた。僕と同じ名前だ。君はとても悪い奴で、僕に酷いことをしていた。酷いことだけじゃなかったけど……。君は何も言わないまま消えてしまったんだ。まさか戻ってくるとは思わなかった」
そこで獏良は困ったように笑った。
「だから、恨んでいると?それを聞かせたかったのか?」
「違うよ。知ってもらいたかっただけ。不公平だからね。すべてを知ってからでないと。とても長い話になる」
「その後は?お前はオレに記憶を取り戻させたいんじゃないのか」
バクラは噛みつくように、矢継ぎ早に質問を投げかける。
過去の非道を打ち明けながら冷静なままでいる獏良を理解できなかった。
「ねえ、君。君はどこにも行く当てがないんだよね。だったら、ずっとここにいていい。ここを君の場所にしていい。そうしたら……」
「お前!オレの質問に――」
「そうしたら、僕が全部思い出させる。一生をかけて。あとは君の意思に任せる」
バクラに向けられた瞳は優しげで真っ直ぐだった。
「お前、意味分かんねえよ……。普通、酷い目に遭わされた相手にそこまでしないだろ」
バクラはギリギリと歯を食い縛った。
先ほどまでは頭が焼けるように痛かった。
今は胸だ。むかむかと吐き気にも似た感覚が迫り上がってくる。
「しないかもね。でも、今僕にできることはそれだけだから。過去のことは後で二人で考えればいい」
獏良から笑みは消えない。
対照的に会話が続けば続くほど、バクラから余裕が消えていった。
「本当にお前は……!ヘラヘラと!」
バクラの両手が獏良の肩を掴む。まるであの日の再現だった。
違っていたのは獏良の表情。
恐れも慌てもせずに、バクラを見つめ返していた。
「ヘラヘラと?」
一瞬だけバクラはたじろいだが、今度は言葉を失わなかった。
「お前のそのツラを見ていると腹が立つんだよ!清廉潔白ですってツラしやがって」
肩を力いっぱい掴まれても獏良は顔を動かさない。
その振る舞いがますますバクラを焦らせる。
「お前を見ているとなァ……汚したくなるんだよ!」
そして、引き出されたのは心の底からの叫び。
目を血走らせ、歯を剥き出し、有りっ丈の声を上げる。
「そのお綺麗な顔をぐちゃぐちゃに汚して、一生残るように刻みつけて噛みついて、真っ黒にしてやりたい。
オレ以外のヤツが触れることは許さねえ。全部オレで満たして、オレ以外のことを考えられなくしてやる。
お前を好き放題にしていいのは、このオレ様だけなんだよ!」
すべてを吐き出したバクラは激しく呼吸を繰り返した。
呼吸音だけが二人の間に流れる。
獏良は口を半開きにし、数回瞬きをした。
「それが君の『答え』?」
「答え?」
バクラが聞き返すも返事はない。
獏良は他のものなど目に入らないほど、バクラの顔をまじまじと見つめている。
身勝手な言葉を耳にしても怒ることも悲しむこともしない獏良の様子に、バクラは困惑していた。
「なんて自分勝手なんだ。僕の気持ちを無視して。傲慢で図々しい」
はっきりとした物言いだったが、驚きの感情を含んでも不快には感じていないようだった。
それどころか、獏良の顔に赤みが差していく。
「でも、とても君らしい。そうか、君は君なんだね。確かに僕の聞きたかった答えだ」
バクラに向かってくしゃりと相好を崩した。
見る者が息をするのも忘れるほど、晴れ晴れと光に満ちた笑顔。
獏良の肩に置かれたバクラの手が緩んだ。
その手を潜り抜け、獏良はバクラの背中に手を回した。
「僕と君の話をしよう。全部教えてあげるよ。僕の大好きなゲームも教えてあげる。」
「……変なやつだなお前」
バクラは呆れ気味に息を吐き出すが、それ以上は何も言わなかった。
葉が揺れるような微かな笑い声がバクラの耳を擽る。
抱きつかれた胸と手を回された背中があたたかい。
獏良は身体を少しだけ離し、バクラの顔を見つめた。
「君はね、僕のことを宿主って呼んでいたんだよ」
「やどぬし?」
聞いたまま口に出すと、驚くほど自然に音になり、耳に入る。
記憶はないはずなのに、懐かしい響き。
「宿主」
バクラはもう一度繰り返した。
「なに?」
獏良の目尻が下がり、笑顔が一層深くなる。
バクラはこの時をずっと待っていた気がした。
空っぽのはずなのに、これが見たかったんだと、胸の内側から湧き上がる熱が抑えられない。
傷つけて、噛みついて、泣かせて、壊してしまいそうなくらい欲しかったもの。
それが今、花開くように微笑んで腕の中にある。
「一からやり直そう。僕は今度こそ最後まで付き合うよ」
獏良に誘われるようにバクラの口端が緩やかに持ち上がる。
「宿主」
バクラは何度も繰り返し獏良を呼ぶ。空白の時間を埋めるように。
「うん」
獏良は呼びかけに一つ一つ丁寧に応えた。
「君が僕の元に戻ってきてくれて良かった。ありがとう、バクラ」
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本格的に前後編と分けて更新するのは初めてです。
以前発行した『Time After Time』という本の派生話となっています。
前編の答えになっているでしょうか。
二人で作っていく未来というものも良い気がして。