ばかうけ

※前回までの話を先に読まれた方が幾分か分かり易いです。


見渡す限り一面の闇だった。
すべての物体は勿論のこと、壁も天井すらも見えず、足が地についているという事実だけで辛うじて床を認識できる空間。
闇に包まれた広大な砂漠の中心とでも例えられるだろうか。
そんな空間に存在しているのはたった二人だけだった。
一人は唇を真一文字に結び、視線を一点から離さずに佇んでいる。
もう一人はその視線の先――一歩進んだ先に向かい合う形でいる。
ひた向きな視線には反応を示さず、瞳は閉ざされたまま。
視線に応えて見つめ返すことはない。言葉を発することも。
なぜなら、もう一人は床から突き出た六角柱の――上部は先が窄まり錐状となっている――水晶の中にいるからだ。
混じり気のない無色透明な水晶。
光を受ければ様々な色を映し出してきらきらと輝くのだろう。
中に閉じ込められた肌も髪も色彩に乏しい少年には似合いの鉱物だ。
残念ながら闇一色の空間では色を映すことは叶わない。
その代わりに、中の様子がこれ以上ないほど見えた。
日常の中の何気ない立ち姿をそのまま縫い止めたかのよう。
睫毛一本動かすことはない。呼吸すら忘れている。
それでも心臓は健気に鼓動を続け、冷たい結晶の下では血液が流れている。
生きたまま水晶の中に閉じ込められているのだ。
誰もが嘆く残酷な姿だったが、まるで磔にされた聖職者のような神々しさがあった。
水晶の中の少年はそれほどまでに美しかった。
顔の中心にすっと通った鼻梁も、薄桃色の花弁が二枚重ねられたような形の良い唇も、なだらかにカーブを描いた頬も。
すべてが計算されて作られているとも思えた。
少年を閉じ込めた張本人であるバクラは、水晶を一心に見つめている。
慕情にも似た感情が眼差しには込められていた。
もしかしたら、美しい姿に陶酔しているのかもしれない。
水晶に向かって手を伸ばし、少年の頬に――正確には硬く冷たい水晶の表面に――触れようとする。
あと数ミリというところでバクラは手を止めた。
手を差し伸べた体勢のまま時を忘れていた。
少しの間だけだったが、二つの並んだ彫像に見えた。
バクラは何事もなかったように手をゆっくりと下ろした。
「滑稽だな」
それが少年を抱いた水晶の前で吐いた最後の言葉だった。


10 ずっといっしょだよ


獏良了に取り入るのは簡単だった。
警戒心を剥き出しにしていた獏良に辛抱強く話しかけ、少しずつ打ち解けていった。
ずっとそばにいたのだから、獏良の性格や趣味はすべて熟知している。
気に入られるのは簡単なこと。
遊戯を監視するためだった。
獏良が遊戯の友人であり続ければ隠れ蓑にできる。
感情のある人間のふりをするのは些か疲れるが得たものは大きかった。
獏良は友人には甘い。
心を許すとすぐに無警戒になってしまう。
それまで友人を遠ざけていたためだ。当然の結果と言える。

「もっと広い世界が見たい。オレは一人じゃ動けねえから」
「早く成仏してえな」
「オレにはお前だけだよ」

そんな安っぽい泣き落としの言葉も獏良はあっさりと受け入れた。
誰もいない場所でたくさん話をした。心の中でなら手を繋いで触れ合うこともできた。それ以上のことも。
獏良は一点の曇りもない笑顔をバクラに向けた。
完全に心を許していたのだ。
そんな獏良を水晶漬けにするのは容易かった。
開ききった心を闇が侵食するのは早い。
以前、一度だけ抵抗したときのような奇跡はもう起こらない。
テレビ番組を見終わり、飲み物を取りに行こうと椅子から立ち上がった獏良に、バクラは声をかけた。
恐らく、獏良は「なに?」と呼びかけに応えて普段と変わらない笑顔で振り返ろうとしたに違いない。
その笑顔を見る前に獏良の心を水晶の中に閉じ込めた。
「今まで楽しかったな?」
口が利けなくなった獏良に対し、バクラは薄く笑った。
出来上がったのは生きた人間の標本。
この上なく残酷な所業だった。
こうなってしまえば、肉体の全主導権はバクラに移る。
バクラが望まない限りは獏良が解放されることはない。
五感を失い、永遠に眠り続けるのだ。
宿主としての役目は終わったのだ。
あとは獏良のふりをして遊戯に近づけばいい。
寄生虫が宿主の臓物を食いつくし、腹から突き破って出るように。

バクラは暗い闇の中で一人天を仰いだ。
獏良を幽閉した。心の底に。
今や一つの身体に二つの心ではなく、肉体はバクラだけのものだ。
あとは三幻神を揃えた遊戯の元へ行き、名もなきファラオの魂を導いてやればいい。
もしかしたら、獏良が不在であることに気づいて警戒されるかもしれない。誤魔化す算段は幾つか立ててある。
獏良に作らせていた古代エジプトのジオラマは未完成だが、使用するには問題ない水準まで達している。
すべてが上手くいったら、獏良を解放しても良いともバクラは考えていた。
しかし、友人たちを一編に失くし、荒廃した世界を目にして、常人が正気を失わずにいられるだろうか。
答えはノーだ。
だから、獏良にとって幸せなことなのだ。
何も知らずにただ眠り続けることは。
惨たらしい殺戮を見ず、世界の断末魔も聞かず。
バクラは今まで世話になっていた礼として、できる限り心を砕いたのだ。
せめて幸せな夢を見続けるように。
人間に情けをかけたのは初めてのことだった。
三千年の時に比べれば、獏良と過ごした数年間はとてつもなく短い期間だ。
それまでは文字通り手も足も出ず、ただの器物に成り下がっていた。
獏良という宿主を手に入れてからは「人間」として第二の生を得たのも同じだった。
獏良とのやり取りは、まるでおままごとだった。
笑えるほどに甘ったるく緩みきった生活。

『じゃあ、僕が君の手や足になるよ。行きたいところに何処へでも連れて行ってあげる』
『きっと、君は天音がいるところへ行くんだね。綺麗なところだといいね。その為なら、なんだってするよ』
『僕にも君だけさ』

獏良は疑いもなくバクラの言葉を信じ、笑顔を浮かべた。
だから、獏良を拘束するのは笑ってしまうほど簡単だった。
バクラは何もない空間から意識を外へ向けた。
意識と神経が繋がり、神経が肉体を動かす。神経は身体隅々を通り、指先まで通っている。
バクラは指を折って肉体を操る感覚を確かめた。思った通りに動く。
もう獏良に遠慮する必要はない。
肉体を自分の物のように操って洗面所に向かう。
鏡に顔を映し、鏡像と睨み合った。
バクラが表に出ているときは、どうしても刺々しい顔つきになってしまう。
意識して表情を柔らかくした。何度もやっていることだから容易い。 獏良の雰囲気に近づく。
しかし、これでは友人たちは騙せない。
顔見知り程度なら問題ないだろうが、あと一歩というところだ。
今度は無理やり唇の端を持ち上げる。
頬の筋肉が上がれば、自然と目尻が下がる。
鏡に映るのは人の良さそうな笑みを浮かべた少年だ。
誰も正体が古代エジプトの盗賊だとは思わないだろう。
バクラはこぶしを握ると、鏡の中の笑顔に向かって力を込めて鏡を叩いた。
ガンという音と共に鏡が化粧台ごと揺れる。
――ちがう。
今まで何度となく演じてきたはずなのに、どうしても鏡の中の笑顔とバクラの記憶の中にある笑顔が重ならない。
バクラの目はつり上がり、憎々しげに鏡像を睨みつけている。

もっと獏良は明るい表情をしていたはずだ。
瞳の奥の光も温かかった。
纏う空気まで和やかで、毒気を抜かれてしまいそうになる。

『君が好きだよ』

「だから!お前の顔なんてもう見たくなかったんだッ!!」
バクラは記憶の中の獏良に反論するよう鏡に向かって吼えていた。
いくら消そうとしても、頭から獏良の笑顔が消えない。
水晶の中の獏良はもう笑わないはずなのに。
隣にいて笑顔を向けられていることが当たり前になっていた。
いつからか笑い返すようになっていた。
――限界だと思った。
バクラの自我に関わる根本的な何かが壊れていくような気がした。
このままではおかしくなる――。
綿密に立てた計画が変更になることも厭わずに獏良を遠ざけた。
けれど――。
「……滑稽だな」
バクラの中では二つの欲求がせめぎ合っていた。
破壊と愛執。
どちらかを選べば、どちらかは手に入らない。
バクラは前者を選んだ。
破壊こそがバクラの本性だ。それ以外を選ぶことは自己否定にもなりうる。
闇は闇でなくてはならない。
光を求めてはいけないのだ。
当然の選択であるはずなのに、バクラはこれまでになく動揺していた。
鏡に押し当てていた手を広げ、もう片方の手のひらも同じように突き、鏡像に顔を近づける。
覗き込んだ顔は獏良と同じであるはずなのに、全く違っている。
油断なく前を睨み、口角が下がった唇は硬く結ばれ、険しい顔つき。
――宿主……。
器はもう器でしかなくなったのだ。
目の前にある姿が思い描く通りでないことが不快だった。
なぜ鏡に映っているのは獏良ではないのだろうか。
ぐらぐらと酔いにも似た視界が揺れる感覚がした。
それ以上は鏡を見ていられず、バクラは離れようとした。
が、鏡の表面から手が離れなかった。
まるで手のひらが鏡に吸いついてしまったかのようだった。
腕を伸ばしては曲げて離そうとしても離れない。
バクラは困惑していた。
身体が思い通りにならないなどという経験は――過去に一度だけ。
鏡に映る顔も同じように焦っているはずだ。
しかし、そうはならなかった。
鏡像はバクラの手から離れて、唇の両端を柔らかく持ち上げた。
それは、バクラの記憶にある表情。
そして――、

『どうしたのさ。そんな顔をして』

バクラとは似ても似つかない顔した鏡像が優しく声をかけてきた。
「お前……どうして……」
獏良は心の奥底に拘束している。出てこられるはずがない。
呆気に取られたバクラが鏡に問いかけると、
『どうしてと言われても……。なんだか動けないし。君がこうしたいと思ったからじゃないかな』
少し間延びした調子で鏡の中の獏良が眉尻を下げた。
「オレが?望んだ?」
そんなわけはないと否定の言葉を口にしようとして、バクラは寸前で飲み込んだ。
自身の行動を思い返すまでもない。
ずっと最初から自分の心に気づいていたではないか。
バクラは情けないと忌々しげに舌打ちをした。
『僕を捨てたかったの?』
「そうだ」
『僕はもういらない?』
返せる言葉はなかった。
獏良は変わらず鏡の中で優しく微笑んでいる。
バクラがよく知っている顔だ。
『あのさ。君が何を考えているか僕には分からないけど。何があっても僕は君とずっといっしょだよ』
鏡を隔てて二人は向かい合ったまま。
『君が望む限り。これまでいっしょだったんだから、簡単に離れられるわけないよ。離れようとしなくていい。僕はずっとそばにいるよ』
「お前そんなこと言ってもいいのかよ」
バクラは半分は途方にくれ、もう半分は猜疑心に包まれていた。
これから何が起こるか獏良が何も気づいてないわけがない。
「どうなっても知らないぜ」
『うん。僕らは……えーっと……磁石のS極とN極みたいなもので、離れようとしても離れられないから……離れなくていいんだ。もっと単純で良いんだよ』
そう言って口を開けて笑う獏良の顔は太陽よりも明るかった。
『これまでをなかったことにしないで』
バクラの中には隠すことも捨てることもできない二人の思い出で溢れている。年月など関係ない。
「お前はそれで良いのか」
『良いよ』
二人は鏡を通して見つめ合った。

二人はどこまでも不揃いで
何度キスをしても足りなくて
互いに心と身体を温め合う
すべてに触れて
すべてを曝け出して
眠れぬ夜に身を寄せる
悲しいときは、涙を拭って
凍えるときは、力強く抱きしめて
暗い記憶を鮮やかに塗り替える

もう簡単には消せない記憶。
確かに、もう離れられるはずはない。
バクラがどんなに否定しても否定しきれなかったように。

『ずっといっしょだよ』

水晶がひび割れて、白い両腕が中から伸ばされた。
届かなかった手に今ようやく応えられたのだ。

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甘々で最後までいけるかどうか不安でしたが、どうでしょうか。
これでお題は終了です。

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