時々、頭の中が混乱することがある。
今ここにいる自分は何のために在るのか。自分は何者なのか。
過去と現在の境界線が曖昧になって、頭の中が掻き回されている気分だ。
頭を両手で抱えてうずくまった。
脳裏に浮かんだのは遠い昔の故郷――。
「んー……」
獏良は迷っていた。
心の奥にある一枚の扉。その前に立ち、開けるべきか立ち去るべきか考え込んでいた。
ここはバクラの心の部屋の前。
昨日からずっと静かなのだ。
いつもなら邪魔をしてきたり、憎まれ口を叩いたりしてくるのだが、今はバクラの声も気配でさえも全く感じられなかった。
バクラがいないことは、獏良にとっては喜ぶべきことなのだが、なぜだか気になってしまった。
静かであるとかえって不気味だし、ゴキブリがいるかもしれないときは、ちゃんと確かめるまでは気持ちの悪いものだしと、自分に自分を納得させてここまで来たのだが、最後の一歩が踏み出せない。
ノックという概念がここで通用するのかも悩みどころの一つだった。
こぶしを作って扉に近づけても、叩くことができない。
バクラをとても意識してしまっているみたいで癪に障る。
「あ、あの……いるの?」
意を決して出した声の情けなさに自分で落ち込んでしまう。
――しっかりしろ。ここは僕の中なんだぞ。
返事はない。
中を確かめるために扉のノブに手をかけた瞬間、
「開けるなッ!」
悲鳴にも似た怒鳴り声が中から聞こえた。
――開けるなって……なんで上から目線なんだよ。
反射的にむっとして、それまで躊躇っていたことは忘れて勢い良く扉を開けた。
「なんなんだよ、その言い方は!大体ね、お前は……」
目の前の光景にぎょっとして言葉を失う。
バツの悪そうな顔でこちらを見つめているのは、褐色の肌に目から頬にかけて傷のある――獏良が見たことのない男だった。
「……どなた様?」
3 ぶかぶかのシャツ
「お前がバクラ?」
獏良は不思議そうな顔でまじまじとバクラの顔を見つめる。
髪の色は同じ白だが、筋肉質でがっしりとした容貌は別人のようだった。
いや、普段は獏良の姿を借りているから別人も何もないのだが。
バクラ本人は珍しく困ったような顔を浮かべていた。
獏良の視線から逃れるように目を伏せる。
「あんまり見んな」
いつもより弱気な姿に、獏良の悪戯心がくすぐられてしまう。
バクラの懐にひょいと入り込み、上目遣いでバクラの顔を覗き込む。
「背も高いんだ」
細身ではあるものの背の低くない獏良でさえ見上げるようになってしまう。
いつもは同じ目線になるだけに新鮮だった。
華奢な獏良とは全く違うゴツゴツとした身体。
初めて見るアメジスト色の瞳が綺麗だと思った。
声もいつもより低い。
「見んなって言ってんだろ」
「うぷっ」
額を押して獏良を引き離そうとする。
「ケチ!」
口を尖らす獏良にバクラはようやく苦笑いを浮かべた。
「それ、誰なの?僕みたいな人?」
石タイルに囲まれただけの寂しい部屋に二人は並んで座った。
「僕みたいな人」とは、千年リングの所有者のことを言っているのだろう。
「そうかもな。昔のことだから覚えてねえけど」
直感的に獏良は嘘だと思った。
嘘でなくても、何かを誤魔化している。
バクラの声にも顔にも、そんな雰囲気は微塵も浮かんでないが。
同時に問い詰めても絶対に口を割らないだろうことも分かった。
「ふーん……元に戻るの?」
「もうすぐ、だな。戻っていく感覚がある」
バクラが手のひらを開いたり、閉じたりしながら答えた。 本当のところ、バクラは困っていた。
こんなことは久々なのだ。
長年生きていると――亡霊なようなものであったが――意識が混濁してしまう時がある。
特に千年リングが所有者の手を離れ、バクラが長く眠りにつき、次の所有者の手に渡ったときによく起こりやすい。
すぐに自分を取り戻すのだが、不便なことこの上ない。
――いっそのこと、どこかの王様みたいに全部忘れちまえば楽なんだがな。
今のバクラは弱点を剥き出しにしてしまっているようなもので、ある意味一番見られたら困る存在に見つかってしまったのだ。
野生動物が縄張りに入られたときと同じ。どうにも落ち着かない気分だった。
一方、獏良もこの状況に困惑していた。
姿が違うから、どうしても普段より意識してしまう。
自分より大きくて逞しい姿。自分の中に巣食う邪悪な存在であることは変わらないはずなのに。
「ねえ、それどこの人なの?」
無理矢理口を開いて動揺を打ち消す。
「だから言ったろ、忘れちまったって」
「日本人じゃないよね?服も見たことない感じだし」
胡坐を掻いた太股に置かれているバクラの袖を摘んだ。
バクラは乱暴に腕を引いて獏良の腕を振り払う。
その勢いに体勢を崩した獏良は、バクラの膝の上に倒れた。
起き上がろうと動く獏良の頭をバクラは片腕でローブの中に引き寄せ、
「見んなっつてんだろ」
軽々と片手で押さえ込んだ。
ローブに包まれた獏良はじたばたと藻掻く。
どうやってもバクラの腕を外せなくて、体格差を感じてしまう。
「苦しいんだけど」
観念して大人しくなった獏良は、もごもごと腕の中からバクラに訴えた。
「放したら見るだろうが」
――こんなに嫌がるなんて……。
腕はがっちりと固定されていて放してくれそうもない。
じっとしていると、バクラの体温を直に感じてしまって気恥ずかしい。
視界が遮られているのが不幸中の幸いだった。
大きな胸板も腕も、今は自分の身体ではないのだ。
知っているけど知らないひと。
「……見ないから放して」
バクラの腕が少し緩んだ。
腕の隙間から顔を出す。
「はー」
新鮮な空気を大きく吸い込む。
これ以上の自由をバクラは許してくれないようだ。
すっぽりとバクラの腕の中に収まっている自分に気づいて萎縮した。
「細ぇな」
普段とは違う力の差に驚いたのは獏良だけではなかった。
バクラの方もこんなに安々と押さえ込めてしまうなんて思わなかったのだから。
ぺたりとバクラの胸に手を置く。
褐色の肌の上では獏良の白い肌が眩しく見える。
その手をバクラが掴む。
自分より一回り大きい手に包み込まれる感覚が心地いい。
「お前は大きいね」
バクラも腕の中の温かさに酔いしれていた。
突然、獏良は身体をくるっと反転させた。
腕は固定されたままなので、バクラに背中を向ける形になる。
そして、バクラの片方の袖に自分の腕を通した。
ローブはゆったりとした作りなのですっぽりと入る。
「ほら」
袖口からは獏良の指しか出ない。
その様子を見せびらかすようにバクラに見せた。
「なんだそれ」
ぷっとバクラが吹き出した。
ようやく腕を下ろして獏良を解放する。
獏良がもう片方にも袖を通すと、二人羽織のような格好になる。
「袖、余りすぎ」
言ってけらけらと笑う獏良。
いつもと違うから、なんだかおかしい。
バクラはそのままの体勢でぎゅっと獏良を抱きしめた。
理由なんてない。ただ、そうしたくなったのだ。
一際大きく獏良が笑った。
「はなしてよ」
「はなさねえ」
今度は腕の中で抵抗はなかった。
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そういうシチュエーションのCMが結構前にあってだね。 二心同体だからどうしようかと色々考えた結果、完全に置きにいった感じです。