バクラはベッドに横たわる獏良を眺めていた。
獏良は手も足も投げ出し、無気力にどこか遠くを見ているようだった。
時折、身体の向きを変えるくらいで、ほとんど動かない。
この状態になってから、実に六時間。
食事を取るわけでもなく、寝るわけでもない。
ただ横になっているだけで時間が過ぎていった。
今日だけなら、まだいい。
ここ数日は、ずっとこの状態が続いていた。
しっかりと学校には通い、表面上はにこやかに過ごす。
玄関に一歩入ると、途端に表情が消え失せる。
食事はパンやビスケットを少し齧る程度。
身体を共有しているバクラにとっては迷惑な話だった。
それでも、TRPGで遊戯に負けて以来、日常生活には余計な干渉をしないと決めているので放っておいた。
今日は休日。
朝食を食べた後は、ずっとこのままで、もう一歩も動きそうもなかった。
まさに生ける屍。
そろそろ、何か声をかけたらよいのかと、バクラは思い始めていた。
今の獏良の心の扉は固く閉ざされていて、何を考えているのか、さっぱり分からない。
無理に抉じ開けることも可能だが、そこまでする必要があるとも思えなかった。
――さあ、何と言ってやるか。
気の利いた言葉なんて思いつくはずはない。
バクラは考えながら自然と壁に視線をやり、そこにかかっているカレンダーに目が留まった。
――なるほど。もうすぐ、アマネの命日か。
7 涙を舐める
「腹、減らねェのか?」
考えた結果、出て来た言葉がこれだった。
獏良は背を向けたまま、ぴくりとも動かない。
元よりバクラに仲良くしようとする気はないのだ。
肉体をこのままの状態にされるのは困るというだけ。
反応がないからといって、優しい言葉など掛け続けるつもりはない。
だから、バクラは一切の遠慮なしに思っていることを口にした。
「もうすぐ、アマネの命日だな」
その言葉を聞くや否や、獏良は即座に上体を起こした。
今まで虚ろだった瞳を大きく見開き、バクラを捉える。
目を覚まさせられたら、何でも良かったのだ。
それが獏良にとって残酷な言葉でも、バクラは平気で口にする。
「……なんだ。知ってたの」
獏良の口から発せられたのは、覇気のない声だった。
ぴくりとバクラの下瞼が動く。
このままでは、またベッドに突っ伏してしまいそうな弱々しさだ。
「死んだ人間のことを、いつまでもウジウジと考えてんじゃねェよ。アホらしい」
バクラは底冷えのするような瞳で、獏良を見下ろした。
人間の感傷などに興味はない。
ましてや、過去のことなど、バクラには無意味に感じられる。
獏良はシーツをぎゅうと握った。
バクラの言葉は無慈悲で、まるでナイフで突き刺すように、獏良の胸に届く。
言われていることが正しいことくらい、痛いほど分かっているのだ。
「……僕が悲しまなきゃ。悲しんでやらなきゃ、他に誰が悲しんでくれるっていうの」
渇ききった喉から絞り出した声は震えていた。
「悲しんだところで、死者が喜ぶかねェ」
バクラは正反対にせせら笑う。
長い年月の中で、人間の生と死の両方を見てきた者ならではの言葉だ。
その年月分だけ、二人の温度差は埋まらない。
「みんな天音のことを忘れていくんだ……」
耐えきれずに、獏良は目を瞑った。
バクラの言うことは正しい。
だから、胸がずきずきと痛む。
あれほど悲しいんでいた両親も、時が経つに連れ、何も言わなくなった。
前へ進むために、忘れようと努めたのかもしれない。
それが獏良には辛かった。
「人間は薄情なんだよ。死んだ人間のことなんて忘れてしまう」
「へー」
バクラの相槌に感情は籠っていなかった。
「宿主様は薄情じゃねェと?」
その問いに、獏良は目を開けてバクラを見上げ、
「違うよ。僕も薄情者だ」
笑っているのか、悲しんでいるのか、判別のつかない表情を浮かべる。
「忘れたくないのに、どんどん天音の顔が分からなくなって消えていく」
ぽたりとシーツに滴が落ちた。
獏良の目の縁から涙が溢れ出していた。
同時に、塞き止められていた感情も押し出される。
「だから、悲しまなきゃいけないんだ」
くしゃくしゃに顔を歪めて、思いの丈をバクラに吐き出した。
誰にも話したことのない心情だった。
そんな告白にも、バクラは心一つ動かされなかった。
人の生き死になど関係ない。
ましてや、死んだ人間を忘れようが忘れまいが、どうでもいいことだった。
実に煩わしくて、無価値な感情だと思った。
いま目の前にある事実だけが、バクラにとって全てだ。
目の前でぼろぼろと泣き続ける獏良が、全てだった。
「泣き止めよ」
獏良の涙は止まりそうもない。
獏良本人にも止め方など分からない。
抑えていた感情が溢れた分だけ、流れ出てしまうのだ。
バクラはベッドまで歩み寄り、獏良の目線の高さに合わせて片膝をついた。
「どうしたら、泣き止む?」
表情のない顔で真っ向から獏良を見つめる。
獏良の事情など、どうでもよいが、目の前で泣かれると心がざわつくのだ。
泣き顔など似合わないと思った。
獏良は大きくかぶりを振った。
感情の整理がつかず、涙も止まらなければ、声も出せない。
涙で滲んだ視界に映るバクラの顔には、少し当惑の色が浮かんでいるようだった。
そのまま見つめていると、目の前に手が伸び、獏良の顔の辺りを彷徨う。
何をしているのか、獏良にはさっぱり分からなかった。
また一滴、頬を伝って涙が落ちる。
肉体のないバクラの手をすり抜けて。
――あ。拭おうとしてくれているの?
しばらく、バクラの手は動いていたが、
「止まんねェな」
苛立ちを吐き出すように息をして離れていった。
「泣いたら、ダメなの?」
ようやく、獏良の口から言葉が発せられた。
いまだに涙は止まりそうもなかったが。
「お前が悲しもうが、落ち込もうが、どうでもいい」
音も立てずに、バクラがベッドの上に片足をかける。
「だが、オレの前で勝手に泣くな」
「いじわる」
獏良の瞳には、バクラしか映っていなかった。
どこまでも、自分本位な言葉ではあるが、その真意は読めない。
獏良はぼんやりとバクラの顔を見上げた。
「僕が泣いたら、困るの?」
「困るはずなんてない。放っておいて」と続けるつもりだった。
その前に、バクラの顔が近づいてきて、
「困る」
ゆっくりと舌で獏良の頬を舐めた。
涙を掬い上げるように。
「お前が泣いたら困る」
今度は目元に唇を寄せた。
ちゅっという軽い音と共に、視界が塞がれる。
「……なんで」
「知らねェ。困るもんは、困るんだよ」
バクラは反対側の頬にも舌を這わせた。
もう、獏良の涙は止まっていた。
驚きのあまりに、引っ込んでしまったのだ。
それでも、バクラは何度も頬を舐める。
もう二度と、妹を想って泣かないように。
肉体がなければ、涙を拭うことは出来ないが、止めてやることは出来る。
「もう、泣いてないから。泣くのは止めるから」
獏良が口で言っても、止む気配はない。
それどころか、一滴も残さないように拭われる。
「嫌なら、撥ねつけろよ」
そこには、泣ける隙など微塵もなかった。
今は自分本位な言葉に安らぎさえ感じる。
悲しみも自責の念も全て吹き飛ばしていく。
「ひどいね、君は。悲しませてもくれないんだ」
言葉とは裏腹に、獏良は唇に微かな笑みを湛えていた。
「いいよ。僕が悲しむ暇もないくらい、めいっぱい慰めて」
獏良は身体をベッドに沈め、手足から力を抜いた。
少し前も同じような状態だったが、今は違う。
獏良の瞳には、しっかりとバクラが映っている。
対するバクラの方も獏良を見つめていた。
涙で濡れた瞳が、まるで太陽の光を浴びた海面のようにきらきらと輝いている。
泣いた理由などには、興味はない。
しかし、その瞳に映されるのは自分だけでいいとバクラは思った。
「オレ様以外のために泣くのは禁止な」
「ほんと、勝手だなあ」
獏良の瞳に優しく唇が落とされた。
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バクラは泣かすのは大アリでも、泣かれるのはダメな人なんじゃないかと常々思っています。
目のところにキスをするのは、憧れの意味があるようです。