ばかうけ

心が寒くなる経験をしたことはないだろうか。
原因は恐怖からでも、寂しさからでも、悲しさからでも、どれでも構わない。
胸の奥が氷のように冷たくなって、肉体の温度も失ってしまったかのように感じたことはないだろうか。
極度の緊張から周囲の音が聞こえなくなる。
自分の心臓の音だけが響き、頭の天辺から爪先まで冷水を浴びせられたように全身から血の気が引く。
大切な人と永遠に別れたとき、胸が張り裂けそうになる痛みから涙を流す。
やがて涙が枯れ果てると、無気力になる。息を吸うことも面倒になるほどに。

そんな状態が続けば、実際に指の先まで冷えてしまう。
心と体は切っても切れない関係にあるのだ。
もし、心も体も冷たくなってしまったとしたら、人間はどうなってしまうのだろう。


8 ぎゅうってして。


授業と授業の間のほんの僅かな休み時間。
数名の積極的な女子生徒たちは、そんな機会も逃さずに獏良の席を取り囲んでいた。
表面上はにこやかなままで我先にと身を乗り出し、それぞれが獏良に話しかけている。
本人が冷や汗を浮かべているのにもお構いなしだ。
お陰で獏良は貴重な休み時間に席から動けないでいた。
「獏良くんの手って冷たいんだねえ」
偶然その中の一人と手が触れ合ってしまった。
顔を赤らめてうっとりと呟く女子生徒に、周りの女子たちは鋭く睨みつける。
「……そうかな?」
獏良は家族や少数の親しい友人以外との身体の触れ合いは好まない。他人と距離を置いていた時期が長いからだ。
これよりもっと触られないうちに、こっそりと手を身体の方に引いて隠す。
「手が冷たい人って心が温かいって聞いたことあるよぉ」
また別の女子生徒が周りを押し退けるように口を挟む。
「へ、へえ……」
「じゃあ、やっぱり獏良くんって優しいんだね」
その場にいる全員の視線が獏良の手に注がれる。
女よりも一回り大きく節も目立つが、標準の男のものよりほっそりとしている手。
他の部分もそうであるように、手の色も雪のように白い。
シミ一つないその手は、ある種の芸術品にも見える。
ハイエナの群れに囲まれ、獏良が顔を引きつらせた時、
「獏良くーん」
友人の助け船が出された。
その船に縋りつき、謝罪を口にしながら女子生徒の包囲網を潜り抜ける。
――手が冷たい、か。
友人たちの輪に加わり、あとの休み時間は穏やかに過ごすことができた。

学校から帰宅後、宿題を片づけるために獏良は机に向かっていた。
ノートを押さえている左手にちらりと視線を向ける。
「手が冷たい」と女子は言っていた。
確かに獏良の体温は低めだ。冷え性でもある。
一人では自分の手のひらの温度を感じることは出来ない。
他人の手のひらと合わせてみなければ分からない。他人に触れることで初めて分かるのだ。
ならば、心の温かさはどうやって測ればいいのだろうか。他人と比べられるものではないだろう。
獏良は左手を握ったり閉じたりを繰り返して手のひらを見つめた。
「どうしたァ。自分の手なんざ見つめて。自分の美しさに気づいちまったか?」
左腕は獏良の肩に回し、右腕は机の上に乗せ、バクラが背後から顔を覗き込んできた。
こうなってしまったら、もう宿題を進めることは出来ない。
慣れてしまったこのやり取りに、獏良は早々にペンを置き、ふうと口から息を吐いた。
「おいおい、人を邪魔者扱いすんなよなァ」
バクラは素っ気ない態度をも楽しんでいるようだった。獏良の肩に回した手をそのまま伸ばし、頬から顎を撫でる。
その間も獏良はピクリとも動かない。バクラの好きにさせていた。
肌に触れる指は冷たかった。
「手、貸して」
答えも聞かずに、机の上に置かれたままのバクラの右手を上から握った。
「おい」
抗議の声も聞こえないふりをする。
以前から疑問だったのだ。二人は同じ肉体を共有しているが、バクラが身体を操っている時の体温や五感などは同じなのだろうかと。
同じでなければおかしいのだが、姿が別人のようになるので疑問が生じてくるのだ。
「冷たいね」
バクラの手はひんやりとしていて血が通っていないようだった。
人間でないのだから、当たり前かもしれない。
「心は……温かい?」
獏良は小首を傾げて無機質に光る瞳を見つめる。
「ンなわきゃねえだろ」
逆にバクラに手を掴まれ、その胸に押しつけられた。
手と同様に生き物の温もりは一切感じられない。心臓の鼓動も。
恐ろしいほどに何も感じなかった。
目の前のもう一人には命がないことを、獏良は今さらながらに実感した。
「な、分かったか?死人に生者の温かみなんざねェのよ」
瞳を細め、一層のこと誇るようにバクラは笑う。
生きている全てのものの熱など、くだらなく思っているのかもしれない。
獏良は掴まれた手の指先に力を入れた。
こんなに手も心も冷たいのなら、何も感じないのではないか。
自身が冷えきっていることさえも。
ならば、生者の温もりを鼻で笑うのも頷ける。
「バクラ、僕を抱きしめてみて」
獏良の言葉に一瞬だけバクラの瞳孔が猫のように縮まる。
「……なんだよ急に」
が、すぐに元の不機嫌そうな顔に戻った。
獏良は椅子から立ち上がり、
「抱きしめて」
静かに微笑む。
媚びることもなく、茶化す雰囲気もない、そうすることが当たり前とすら感じさせる自然な佇まい。
邪な心を抱くことを忘れるほど澄み切った表情。
バクラはそろりと獏良の背中に手を回した。
乱暴に扱えば壊れてしまいそうなくらいに薄い背中。
「もっと力を入れて」
耳元で獏良の声が囁く。
言われた通りに、腕に力を入れる。
胸と胸が重なり、とくとくと緩やかな心臓の鼓動が獏良から伝わってくる。
まるで自分のもののように錯覚しそうだった。
とっくの昔にその鼓動は止まっているはずだ。
「もっと、もっとだよ」
なおも獏良は要求する。
苦しくはないのだろうかと、少しの躊躇いがバクラに生まれる。
人間に対する力加減は苦手なのだ。もし、壊してしまったら……。
しかし、獏良が「もっと」と言う。それならば、応えなければならない。

「ぎゅうってして」

どちらの鼓動なのか。
どちらの体温なのか。
分からないくらいに力を込めて抱く。
二つが混ざって、溶けて、一つになる。

「これが人間の体温だよ」
獏良も同じくらい力を込めて抱き返した。
身体全体から伝わってくる確かな熱。
「あったけェな……」
バクラの口から感じたままの言葉が呟かれる。
胸の奥もいつの間にか、ぽかぽかと温かくなっていた。
「あったかいね」
バクラには獏良が今どんな顔をしているのかは見えない。
しかし、先ほどと同じような混じりけのない表情が頭に浮かんだ。
腕の中のこの温もりを失いたくない。
時間が続く限り、ずっとこうしていたいと、ただ思っていた。

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「ぎゅうってして。」は甘える内容になるだろうなと思ったので、逆にしてみました。
抱きしめられるのでもなく、心の中では抱きしめる感じで。 了くんもバクラから触れられるのはいいのかなと。

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