その肌は夜より黒い。
肉体は一寸の隙もなく引き締まり、隆起した筋肉には血管が浮かび上がっている。
二対の歪な翼は闇を切り裂き、
下肢は何者をも飲み込む大蛇。
深紅の瞳は禍々しい光を湛えている。
夢の中で何度も見た姿。
その名は――。
9 添い寝
「――バクラ」
遠くで聞き覚えのある声が呼んでいる。
もう少し寝かせてくれと、その声を聞かなかったフリをする。
しかし、耳から入り込んだ声は、神経を伝って頭の中を刺激し、強制的に意識を呼び戻そうとする。
こうなってしまうと、再び眠りに就くことは難しい。
バクラは薄目を開けて、声の主を確認した。
目の前にいたのは、バクラがよく知る少年。
寸分の狂いもなく整った顔立ち。雪のように白い肌と髪が、神秘的な雰囲気を一層掻き立てている。
薄紅色のふっくらとした唇が、バクラの名前を呼ぶ度に小さく動く。
本来ならば、これ以上ないほど心地の良い目覚めだ。
残念ながら、今日のバクラは眠気の方が勝っていた。
呼びかけを拒んで目を閉じると、慌てた様子で呼びかけられた。
「もう!ちょっと寝ないでよ!」
「……なんだよ、うっせェなァ」
どうやら寝かせてはもらえないらしい。
寝起きの閉じた喉から発した声は掠れていた。
バクラは眩しいものを見るように細めた目を獏良に向ける。
「うるさくないの。困ってるのはこっちなの。
君ね、人の身体を勝手に使うのも良くないけど、そのまま寝ちゃうのは、もっと良くない。
身体、返して欲しいんだけど」
獏良は眉毛を吊り上げ、精一杯の怒り顔を作った。
元が柔和な顔立ちなので、それほど迫力はない。
それどころか、膨れっ面をすることで、逆に愛嬌のある表情になってしまっている。
バクラが同じことをすれば、凶悪な面構えになるのだからおかしなものだ。
まだ半覚醒の状態で、バクラは飽きもせずにその顔を見続けた。
布団の中から手を伸ばし、ベッドの上に置かれている獏良の手に触れる。
びくりと小さく手が跳ねる。が、振り払おうとはしない。
バクラも手に触れるだけで、それ以上のことはしない。
「どうしたの?」
「ん……」
「寝惚けてるの?珍しい」
バクラが無防備な姿を晒すのは稀なことだった。
遊戯たちはもちろん、宿主である獏良にもほとんど見せない。
獏良の肉体を借りっ放しのまま眠りこけるのも、なかなかあることではなかった。
今もこうして、まだ寝惚け眼で布団に包まっている。
そして、なぜか獏良の手を放そうとしない。
獏良はまるでバクラが同じ年頃の普通の少年であるかのように思え、くすりと忍び笑いをもらした。
床に膝をつき、ベッドの上のバクラの目線に合わせる。
「変な夢でも見た?」
家族にするように、優しい声音で自然に話しかけた。
――夢。
その単語と意味が、ゆっくりとバクラの頭の中で結びつき、意識が急激に覚醒した。
夢を見ていた。
遠い昔の記憶。
だいぶ薄れてしまい、もはや断片しか思い出せない。
その頃の「自分」は「自分」でなくて、けれども「他人」でもなくて。
自分自身を見ているような、赤の他人を見ているような、不思議な感覚。
見渡す限り広がる砂の海に、一人の男が立っていた。
身にまとっているのは赤の衣。
フードをすっぽりと被っており、顔はよく見えない。
辛うじて右頬にある傷と、フードの隙間から零れる白い髪が確認できるくらいだ。
男は地平線の先を見つめている。
その先に何があるのか、バクラは知っている。
日光に照りつけられて伸びる男の影は、人のものではなかった。
男を包み込んでしまうほど巨大な影。
その影の名前もバクラは知っている。
――聖霊獣ディアバウンド。
男の心に宿る力だ。この聖霊獣に太刀打ちできる者などいない。……神でもない限りは。
バクラの記憶にも、その姿ははっきりと残っている。
これから先に起こる出来事は、砕かれたパズルのピースように繋がらず、曖昧になってしまっている。
しかし、結果はバクラ自身の中にある。
「ど、どうしたの??」
戸惑いの声がバクラを現実に引き戻した。
獏良は不安げな面持ちで身を乗り出していた。
「いや……」
今や睡魔の霧は晴れ、バクラの頭は冴え渡っていた。
迂闊だった。余計なことを口にしていなかったか、起床してからの言動を思い返す。
とんでもなく不吉な夢を見てしまったと歯噛みをする。
その間も獏良の手を握ったままだ。
「やっぱり変な夢、見たんじゃないの?」
「別に夢なんざ……」
人間じゃあるまいしと続けようとしたところで、
「僕も夢見たんだよ。知らない人の夢」
獏良の言葉に遮られる。
「砂漠に赤い服を着た人が立っていたよ。誰かなあ。バクラは知ってる?」
「知るはずないだろ」
バクラはぶっきらぼうに短く答えた。
獏良は気にする様子もなく、おっとりとした口調で言葉を続ける。
「知っている人なら面白いかなと思って。でも、不思議なんだよ。
その人、一人じゃないんだ。『何か』が一緒にいたんだ」
――お前もアレを見たのか。
バクラは落ち着かない気分に襲われた。
まるで心の中を覗かれているようで。
そんなバクラの動揺にも気づかずに、獏良は夢の内容を見たままに伝える。
バクラに手を握らせたままで、空いている方の手で頬杖をつき、斜め上を見ていた。
「バケモノにでも取り憑かれてたのかよ」
獏良の口を塞ぐわけにもいかず、バクラはほとんど捨鉢になって口を挟んだ。
怨恨と力の象徴ともいえる聖霊獣を見て、獏良がどう思ったのか、ほんの少し興味もあった。
「え?バケモノ??」
獏良はきょとんとバクラの言葉をそっくりそのまま聞き返した。
そして、そのまま瞬きをしてから、
「違うよー」
無邪気な顔で首を横に振る。
「確かに姿は大きかったけど……
全身真っ白で
――その肌は夜よりも黒い。
逞しい身体をしてて、腕なんか丸太みたいでさ
――肉体は一寸の隙もなく引き締まっていて、
隆起した筋肉には血管が浮かび上がっている。
背中に真っ白な鳥の羽が生えてて
――二対の歪な翼は闇を切り裂き、
下半身は蛇になっているの。王様の証かなあ。
――下肢は何者をも飲み込む大蛇。
少し顔は厳ついかもしれないけど、頼もしそうだったよ」
――深紅の瞳は禍々しい光を湛えている。
バクラの記憶の表層がぽろぽろと剥がれていく。
長い時を経て、変貌してしまった記憶の一部が。
「あれはバケモノなんかじゃないよ。とても綺麗だった」
獏良はにこりとバクラに笑いかける。
確かに、最初は獏良の言うとおりの姿だったはずだ。
なぜ、忘れていたのか。
バクラの中に色濃く残っているのは、ファラオとの激闘の末に闇に食われていった記憶。
もうその頃にはディアバウンドは黒く染まっていた。
――だから、なのか……。
自然と獏良に触れている手に力がこもる。
「守護霊みたいなものかなあ。それとも、守り神様なのかも」
あれこれと思案をし始めた獏良に対し、
「……ハッ。神様か」
溜息と共に低い笑い声をもらした。
悪意一つない、からっとした笑い声だった。
「ねえ、君の見た夢は、いい夢?それとも悪い夢?」
「どっちでもねえなァ」
ベッドに身体を沈めたままで、バクラは目を細めて唇を横に引いた。
獏良の手をゆるゆると撫でる。
「なあ、また眠くなっちまった。もう一眠りしようぜ」
「えー。またぁ?もう、しょうがないなあ」
獏良はその手を振り払おうとはしない。
「今度はいい夢、見られたらいいね」
頭をベッドの上に乗せ、おやすみと優しく言った。
『とても綺麗だった』
バクラの胸に優しく、その言葉が染み込んでいった。
曇天を鮮やかな青空に変えるその一言が。
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原作を読んでいて、初めてディアバウンドが出て来た時のぞくぞく感と
文庫版20巻の表紙を見た時にかっこいいなと思いながらも何とも悲しい気持ちになってしまった思いを込めて。
ディアバウンドやゾークは太陽を飲み込む者という意味だと思いますが、ここではいい意味で。