※平安時代は通い婚が一般的でした。来るか来ないか分からない相手を待ち続ける時代です。そんな二人を結ぶのが文(ふみ)でした。
※獏良が姫君みたいな扱いです。性別は関係なく結婚してます。
※平安時代に詳しくない人が頑張って書いてます。お許し下さい。
読んでも読まなくてもいい単語集
文中に一応説明は書いてあります
褥・衾(しとね・ふすま)…掛け布団・敷布団
御簾(みす)…カーテン、仕切り
燈台(とうだい)…室内照明
薄墨紙(うすずみがみ)…再生紙
烏帽子(えぼし)…元服(成人)した男が必ずかぶるもの、未着装は全裸と同じ
笏(しゃく)…手に持つ細長い板
三位(さんみ)…スーパーウルトラ凄い位、数が少ない方が位が高い
冠(かんむり)…烏帽子の正装版
北の方…嫁
雁皮紙(がんぴし)…高級紙、紙は貴重品
本名…当時は他人に明かすことはなかった、字(あざな)・通り名・役職名で呼ぶのが一般的
後朝(きぬぎぬ)の文…契った翌朝に男が送る恋文、マナー
四半刻…三十分
獏良が寝所で寛いでいると、粗野な足音が近づいてきた。
皺が寄った褥と衾を直し、背筋を伸ばして座り直す。唇を固く引き結んで、来訪者が現れるのを待ち構えた。
床と御簾の隙間に白い手が断りなくにゅっと入り込み、そのまま勢いよく御簾を高く上げる。
「よォ、宿主」
獏良の頬がぴくりと震える。しかし、表情の変化はそれだけ。相手に心情を悟られないよう無反応を決め込んだ。
来訪者の口元に薄い笑みが浮かぶ。
燈台の明かりから生み出される二人の影がゆらゆらと揺れていた。
*****
獏良家は学者の家系だった。学者の地位はまだ低く、いくら優秀であっても出世は望めない。そうでなくとも、恵まれた環境に身を置いている一部の人間だけが機会を与えられる世の中だ。下級貴族の家に産まれた者は燻ったまま一生を終える。
獏良はそんな家に嫡男として生を受けた。家柄には恵まれなくとも、優れた容姿を産まれながらにして持っていた。
整った目鼻立ち、女よりもきめ細かい肌、きゅっと口角が上がった唇。珍しい白い髪は神秘的な雰囲気を作り出し、むしろその美しさを際立たせる。
本来ならば宮中に出仕する年齢だったが、その並外れた美しさに不安を感じた父親は、まるで貴族の娘のように獏良を屋敷の中に留めた。御簾の後ろに隠してしまったのだ。
獏良はそんな境遇に悲観することなかった。父親が自分のためを思ってのこと。それに屋敷の中で過ごすことは性に合っている。父親の手伝いをしたり、勉学に励んだりすることが退屈しのぎになった。
獏良の存在はその美しさゆえに宮中まで噂になっていた。男女が直接会って会話を交わすことは憚られる。御簾で隔てて垣間見える女のほっそりとした手や鈴を転がすような声に想いを馳せるのが一般的。想像力を掻き立てられるだけに人から人へ伝えられやすい時代。男子の身でありながら涼やかな声や優雅な物腰という深窓の令息の噂は、男女問わず心を魅了した。
また、時間が余り過ぎて読み物に耽ることに飽きた獏良は、父親から薄墨紙を分けてもらい、物語を記すことにした。勇ましい若武者が物怪を倒していく痛快な冒険譚。若武者は屋敷から出ることを許されない獏良の代わりに全国各地を旅する。
獏良が架空の世界に夢中になっているうちに、いつの間にか物語は写書されて人々の手に渡っていた。噂に聞く深窓の子息が書き記したということで尚のこと評価をされる。
男性は酒の席で肴に、娯楽草子を嗜むのは品がないとされる女性は扇子を口元に当ててこっそりと、続きを待ち詫びていた。
美しさと教養を兼ね備えた宝珠として、獏良は影で「白菊の君」「白雪」などと呼ばれるようになった。
婚姻の申し込みが殺到するも、卑しい身分の元には中下流貴族のみ。息子が可愛くて仕方のない父親はそれをすべて断った。
稀に上級貴族から「白菊の君」を妾にと声がかかることがある。身分に差がある御曹司の目に留まることは妾でも名誉なこと。それでも父親は首を横に振った。可愛い息子を日陰者にしてなるものかという想いがあったからだ。
頑なな父親の態度に周囲はますます「白菊の君」に虜になった。
*****
ある日、屋敷の前に三台の牛車が停まった。どれも豪華絢爛な装飾が施されていて目が眩む。
屋敷中が大騒ぎとなった。明らかに身分が高い者が現れた。しかも三台もの牛車を引き連れて。
前触れもなくどういうことか。父親は屋敷の主として烏帽子を落とさないよう押さえながら、慌てて牛車の主を出迎えた。
車箱から降り立ったのは一人の男。一目見れば殿上人だということが分かる身なり。笏を持つ父親の手が震えた。
「其方の男君を正室に迎えたい」
その男は慎みもせず明け透けにそう言った。
騒ぎに気づいた獏良は、聞き耳役に下女を向かわせていた。その下女が血相を変えて戻り、「お坊ちゃまを北の方に、と……!」
「ええっ?!」
その慌てぶりから余程の相手なのかと冷たい汗が獏良の頬を伝う。自分の存在が噂になっていることは知っていた。今までは父親が矢面に立って縁談を断っていたから、どこか他人事として余裕を持っていられた。呑気に空想の世界に浸っているだけで済んだ。
「どうして。なんで。相手は……?」
下女は胸を押さえて息継ぎをしてから苦しげに答えを口にした。
「鬼三位です……!」
あまりのことに獏良の顔から血の気が失せる。
鬼三位とは、悪名高い上級貴族の通り名だ。宮中で気に入らない相手に笏を投げつけて冠を落とした——など素行の悪い話の数々が獏良の耳にまで届くほど。
いくら家柄に恵まれても、ただ品位に欠けるようでは三位などという位階は与えられない。恐ろしく有能な男だという評価も話について回っている。だから、世間は畏怖の意味を込めて彼の位に「鬼」とつけて呼んでいるのだ。本来なら獏良の身分では一生のうちに目通り叶わない相手である。
なぜそんな殿上人が——?
獏良は身なりを整える暇もなく慌てて母屋に移動し、かたかた小刻みに震えながら御簾の内側で来訪者を待った。程なくしてやってきた男は獏良の前で腰を下ろし、両足の裏を合わせた。
「——お初にお目にかかる。噂に聞く奥間に咲き誇る白菊の君、この度は夫婦の契りを交わしたく馳せ参じた」
「お、お戯れを……私は……卑しい身分の者。身に過ぎた話です。あなたほどのお方には……もっとお似合いの相手がいらっしゃるでしょう……」
身分の高い相手に正面から断るのは恐れ多いこと。獏良はつっかえつっかえ粗相のないように言葉を返した。返答一つで獏良家が傾くこともあるかもしれない。
男は笏を烏帽子に滑り込ませるようにして頭を掻き、片膝を立ててから大きく息を吐き出した。
「オレ様はよォ、まどろっこしい話は嫌いなんだ。単刀直入に言うぜ。お前を正妻に欲しいと言っている。その『卑しい身分』であるお前に断る権限があると思ってんのかァ」
すべて言い終わると、喉を鳴らして笑った。
獏良の顔を隠す扇子が手から滑り落ちそうになる。噂通りの男だった。そもそも知らせもなく屋敷にやって来ること自体が目上のものでも無礼なのだ。本来は何度も文を交わし、屋敷の主に話を通したところで面会が認められる。それをこの男は一切の手順を省いて現れた。どうして認められようか。
獏良は男の粗雑な態度に目眩を起こす寸前だった。ぐるぐると様々なことが駆け巡る。自分の立場、相手の身分、父親の地位、家の状況——。御簾越しに会話を逸らすことが精一杯。「勿体ないです」「ぼ…私などでは」
男は曖昧な言葉尻をしつこく捕まえて放さない。それどころか、追い詰めて言質を取ろうとさえする。頭が切れるという話もただの噂ではなかったようだ。押し問答は一晩中続いた。
夜が明けて男が牛車に乗って去っていった頃になると、獏良は疲弊しきっていた。
翌日、屋敷は男の話題で持ちきりだった。雲の上の人がお坊っちゃんを娶りに来た。まるで夢物語のよう。特に女たちは騒いでいた。下働きの者たちはみんな多かれ少なかれ麗しい美貌の男君を自慢に思っている。だから、自分のことのように喜んだ。
父親も同様だ。いつまでも息子を閉じ込めておきたいと思ってはいない。行く行くは相応しい相手を、と考えていたところに最上の話が舞い込んできたのだ。最初は予告なく現れた男に面を食らったものの、話してみると行儀作法をよく弁えている。
男は突然の来訪を父親に詫び、牛車から荷物を下ろした。二台に分けて詰んできた品々は挨拶代わりの贈り物だという。米、酒、雁皮紙、木炭、反物——どれも高価なものだった。心尽くしの品々に父親は胸を打たれた。身分違いの者にここまでしてくれるとは。これなら息子も幸せにしてもらえるに違いない。獏良家の格も上がる。そうなれば、お家安泰だ。
獏良だけが寝所に引きこもって自身の不幸を憂いていた。とても婚姻話を断りたいと言い出せる雰囲気ではない。身分差がある者からの求婚を断ったとなれば、何様だと後ろ指を差されかねない。獏良家の立場が危うくなる。逆にこの話を受け入れたとなれば、上級貴族と縁ができることになる。父親の出世も望めるし、妹にいい縁談が舞い込む可能性も高い。ただ空想の世界でずっと遊んでいられたら、それで満足だったのに——。
「僕はどうしたら……」
夕刻、男はまたやって来た。今度は宮中からの帰りということで、さすがに牛車は一台だった。正式な客として獏良を除く屋敷中が歓待した。
前日のように腹の探り合いになっては身が持たない。獏良は用足しや清拭など様々な理由をつけて男から逃げ回った。そうしているうちに引き下がって欲しいと念じながら。
男は腹を立てる様子もなく、どたばたと行ったり来たりする獏良の様子を御簾の外から眺めていた。前日の高圧的な態度から強硬手段に出るのではと思われたが、しつこく追いかけ回したりはしない。ただ口元の薄ら笑いが不気味だった。まるで小動物を追い詰めた肉食獣のような余裕すら感じられる。そうして、やはり朝方になると帰っていった。
また次の日も同じような時間帯に男はやって来た。二日連続の対応に獏良の目の下には隈。ろくに頭も回らない。何度も意識が落ちそうになり、その度に頭を振って眠気を飛ばした。
弱った獏良に対し、男はなぜか今日に限って低姿勢を貫いた。獏良を気遣う優しい言葉に、連日の訪問に対する謝罪。「お前が愛しいゆえに」と袖で目元を拭う仕草さえした。
何かおかしいと思いながらも、相手の言動を吟味する余裕は獏良にない。眠気で朦朧として覇気のない相槌を打ち続けた。
そして夜が更けると、男は艶やかな黒に金の蒔絵が美しい漆塗りの小箱を取り出した。蓋を形式張った手つきで開け、獏良に中身が見えるように前へ差し出す。
「そんなに気が進まないなら仕方がない。婚姻については考え直すとしよう。せめて茶を一杯付き合ってくれないか。お前との思い出にしたい」
中には手の平に乗る大きさの丸い塊が二つ。
「お前が喜ぶと思って茶菓子を用意してある」
これまで延々と弱気な態度を見せられ、獏良の中にほんの少し同情心が湧いていた。お茶だけならと下女に茶の準備を頼む。そうして配膳された茶には、男が持ってきた菓子も添えられた。
「穀物を練って蒸かした菓子だ。美味いぞ」
菓子は滅多に口にできるものではない。新鮮な果物すら高価なもの。男が持ってきた菓子は獏良の知る菓子とは違っていた。たまに口にできる菓子は、唐菓子と呼ばれる油で揚げた硬質な食べ物だ。日持ちしない菓子を手に入れられるのは位の高い貴族のみ。見慣れない柔らかそうな食べ物に唾が出る。
「美味しそう……」
三本の指で手に取ってみると、表面に指が沈む。力を入れれば潰れてしまいそうだ。甘味料も練り込んであるのか、夢見心地になるいい香りがする。
ぱくり。一口含んでみる。思った通り品の良い甘味が口の中に広がり、鼻に抜ける。咀嚼する獏良の表情も思わず緩む。
——ぐに。
「……むぐ?!」
柔らかい生地の中から弾力性のある何かが飛び出した。歯にまとわりついて離れない。獏良は噛み千切ろうと手の中に残った菓子を引っ張る。しかし、千切れるどころか、中身は伸びて手と口を繋ぐ。
目を白黒させて口を動かす獏良に、男は堪えきれないというように喉を震わせ始めた。徐々に低い笑い声が漏れ出す。殊勝な態度は彼方へと消え去り、出会った日と同じく太々しい態度へと成り変わる。
「ククッ、教えてやろうか?それはな、餅だ」
「む、むぅ……!」
菓子を咥えたまま、獏良は目を見開いた。
——謀られたッ……!!
三日夜の餅——婿となる男が相手の家へと通うことが許され、共に夜を過ごした三日目の夜に夫婦となった証に食す餅のこと。餅には霊力が宿ると信じられ、ハレの日に出される特別な食べ物だった。
獏良はこの男と三日の夜を過ごしたことになる。そして餅を食べたことで婚姻の儀が成立してしまった。いくら寝不足で頭が働かなかったとはいえ、なかったことになどできない。茶の準備をした下女は間違いなく目撃している。家族や女中たち、みんながみんな認めるだろう。
男は口を大きく開けて笑い、菓子をそこへ放り込んだ。
「これからよろしくな、『宿主殿』」
目の前が暗くなるとはこのことだ。獏良の顔から色が抜け落ち、瞳に影が差す。口の中では餅が粘りついたまま居座っていた。
獏良の書いている冒険譚には、途中で獏良自身を型とする宿屋の主人が出てくる。数行のみの登場で重要人物ではない。ただ面白がって書いてみただけの、謂わば作者によるお遊びだった。だから誰にも言っていないし、気づかれることもない。その必要もない。それをこの男は気づいたのだ。だから、わざと獏良を『宿主』と呼んでみせた。何枚にも渡る物語をよく読み込んで理解しなければ不可能なこと。獏良は一人だけの隠れ家を覗かれていたような薄気味悪さと恐ろしさに震えた。
すぐに屋敷では宴が開かれた。茶を配膳した下女が速やかに事の次第を父親に報告し、準備が進められていたからだ。こうして二人の婚姻を内外に知らしめたことになる。獏良は胸中を誰にも打ち明けられないままでいた。鼻持ちならない上流貴族の男——バクラを婿として迎えることになってしまったのだ。
宴が終わると、バクラは性急に獏良を押し倒した。やはり今まで感じていた余裕は手加減していたからだと思い知らされる。獏良が押し退けようと藻掻いてもびくともしない。あれよあれよという間に帯が解かれ、肌着の中に手が滑り込む。肌の感触を確かめながら秘所へ。
「……あ、やっ、待って……嫌だ……ぁ」
誰にも触られたことのない場所に手が及ばないよう足を閉じて抵抗する。
バクラは振り乱れた獏良の髪を梳きながら、耳に唇を寄せてねっとりと囁く。
「いいのかァ?そんなに騒いで。女どもに聞こえちまうぞ」
「ぁっ…………」
びくんと獏良の身体が揺れて強張る。
「ん、んんっ、ぐっ、んー!!」
着物を咥え、足の指を折り畳み、その夜は耐えた。頬を涙で濡らしながら顔を赤くして食い縛る姿がバクラを煽っていることにも気づかずに。涙痕は朝になっても頬にくっきりと残っていた。
*
それから頻繁にバクラは屋敷にやって来た。日が暮れてから獏良の部屋を訪れ、夜が明ける前に帰る。そんな生活が続く。
「あっ、やっ、ァ、んっ、んん……」
翌朝になると女中に「愛されてますね」と耳打ちされてしまうから、声を抑えるのに必死だった。だというのに、容赦なく責め立てられる。日に日に馴染んでしまう身体が憎かった。乱暴に吸われる唇、重なる素肌と素肌、思わず身を委ねてしまいそうになる。自分の中に唯一残っている自尊心に縋るしかない。
「了——」と耳に囁かれると全身が熱くなった。親しい身内だけに許す呼ばれ慣れない本名。他人に明かすことは忌むべきこととされる。こんなときだけ吐息混じりに呼ばれては、心情とは無関係に反応してしまう。
「ん、あッ、は、ぅンッ、ああっ……!」
朝に目覚めると、隣には誰もいない。冷えた褥がそこにあるだけ。夜だけの関係に虚しさが獏良の中に降り積もっていった。
婚姻関係が成立してしまったから離縁を願い出るのは難しい。周囲を落胆させることを考えたら、実行に移す気にもなれなかった。本来なら文と文を交わすところから恋愛が始まる。紙に香を焚きしめたり、花を添えたりして想いを交わす。それを一足飛びにしてしまった獏良は、まだ恋愛というものをしたことがなかった。しかも、初めての夜から一方的で身体を気遣われたこともない。同衾した次の日は全身が悲鳴を上げるように軋んだ。
獏良が空想の世界に浸ることはなくなった。執筆は途中で止まったまま。日がな一日ぼうっとして過ごす。庭を眺めたり、文台に突っ伏したり。夜になれば気を引き締めなければならなくなるから、一種の自己防衛本能が働いているかもしれなかった。
獏良は文台に頭を乗せたまま、脇にある浅い木製の箱の表面を撫でる。何度かそうしてから、思い立って箱を空けた。中には積み重ねられた紙束。どれも美しい白色の厚紙。一番上を手にし、蛇腹折りのそれを横に広げ、記された文字に視線を落とす。
「……朝には霜が降り始め、寒くなってきました——」
小さな声で内容を読み上げる獏良の目尻に小さな皺が刻まれる。
品の良い丁寧な文章。時に儀礼的な挨拶が、時に機知に飛んだ和歌が、記されている。箱の中にあるのは、すべてバクラからの文だった。職務や行事が立て込んでいて会えないときによく送られてくる。その上、後朝の文——逢瀬の朝に送るもの——は欠かさずだ。それこそ存在を忘れられないほどに。
少し崩した癖のある筆跡は手本となるような字ではないが、勢いがあって美麗だった。特徴的な跳ねや払いに強い自我が表れている。婚姻の宴で一句読んでいたのを隣で見ていたから分かる。決して代筆ではなく、本人の字だ。
宮中では教養や品性が重要視される。上手く和歌を詠んだものが出世できるといってもいい。機転が利く人物でなければ評価されないのだ。家柄だけでは出世争いの土俵にも上がれない。本性がどうであれ、バクラの三位という官位は伊達ではないのだ。
『すっかり葉が色づいてきました。神事に追われ、しばらく会いに行けません。あなたと紅葉狩りをしたいのに』という文が送られてきたから、獏良は紅葉の枝に文を結んで返した。
『どうぞこれで紅葉を楽しんで下さい』
一人で紅葉狩りを楽しんでいれば、という意味だ。我ながら会心の出来だとほくそ笑んでいたら、すぐに返事が届いた。
『お気遣いありがとうございます。綺麗な紅葉ですね。今宵はあなたの代わりに愛でることにします』
獏良はその日、悔しさのあまり一日中着物に包まり不貞寝した。
何もかも相手の方が上手。手のひらの上で弄ばれているよう。そもそも上級貴族が格下の身分の者を娶る意味がない。きっと、噂になっている『白菊の君』を正室に選ぶことで話題を独占したいのだ。出世に利用されている。そう思い込もうと必死なのに、獏良は届いた文を何度も読み返してしまうのだった。
昼は文のやりとり、夜は一方的な房事が数ヶ月続いた。立場が上だからといって侮るなと罵ってしまいたい。すべて自由になると思うなと拒絶してしまいたい。しかし、バクラの位階を利用しているのは獏良家も同じ。学者風情では立場がなかった以前よりずっと暮らしやすくなった。
一生このままなのかと憂うる一方で、手元にある紙切れ一枚を心の拠り所とせずにはいられなかった。一つ言葉を送れば、十にも二十にもなって返ってくる。今まで経験したことのない刺激。筆を取ると心が弾んでしまう。文を心待ちにしてしまう。閨の中では、まともな会話がないから余計にそうなる。上辺だけの言葉ではないかと疑いながらも、やりとりを続けてしまっていた。
*
その夜も獏良は歯を食いしばって声を殺していた。目に涙を湛え、早く夜明けが来るように祈る。
「ったく、お前はちっとも素直にならねぇなァ。こんなに反応してやがんのに」
腫れた急所を無遠慮に握られ、獏良の腰が跳ねる。
「……ッどうせすぐ通わなくなるくせに」
カアッと顔が熱くなり、すぐそばに脱ぎ捨てられている夜着を掴み、バクラに向かって叩きつけた。初めての反撃。たかだか布一枚では痛くも痒くもないだろうが、己の意志を示すことに意味があった。ばさぁ、と着物が空中に舞い、ゆっくりと落ちてから畳を滑る。部屋の隅に避けた文机まで届く。文机の上には木箱。着物に押し出されて木箱が床に落ち、中身が畳に雪崩れるようにして広がる。美しい純白の紙が何枚も重なって。
「お前……」
――見られてしまった……。
獏良は相手の顔も見ずに、褥に爪を立てて声を荒げる。
「出ていけ……帰れッ!」
それだけ言うと顔を突っ伏し、わなわなと身を震わせた。バクラは身動きせず、口を閉ざし、獏良に寄り添う形でその夜を明かした。
獏良は泣きながら寝入り、気づいたときには朝だった。冷えきった空気に全身が突っ張る。ぼやけた頭で周囲を確認し、昨晩の出来事を思い出す。バクラは屋敷を出て行きはしなかった。啜り泣く獏良のそばにいた。途中から意識を失ってしまったが、少なくともそれまではいた。
身動ぎをして、馴染みのある衾や着物の他に見慣れない着物が身体にかっていることに気づく。位の高いものしか着ることを許されない深紫色だ。日が落ちた後に会ったときには柄や色まで分からず、断定はできないが――もしかしたら、バクラのものだろうか。敷物を探ってみると、何者かがいた形跡がある。まだ温かい。
「どうして……」
獏良は着物を両手で引き寄せ、顔を埋めた。
強引な手を使って婚姻を成立させたと思えば、熱心に文を送ってくる。毛色の違う世間知らずが、ただ物珍しいだけではないのか。雲上人が面白がってちょっかいをかけているだけ。他の貴族と同じように、どうせすぐに飽きて妾を作るはず。通いもなくなる。そうしたら、終わり。婿に通われなくなった正室は惨めだ。
獏良の目の縁に涙が溜まる。バクラの考えがまったく分からない。文を信じていいのか、否か、決められない。
鼻を啜っていると、下女が慌てた様子で廊下を走ってきた。
「お坊っちゃん、文です!旦那様からの!」
「えっ?!」
もしバクラが普段通りに帰宅したのなら、それほど時間は経っていないはず。敷物の名残からしても、四半刻は経っていないのではないだろうか。そうならば、まだ自宅に戻る牛車の中だ。獏良は胸を押さえてから、折り畳まれた文を広げる。記された文字に目を落とすと、指に力が入った。紙に皺が寄る。
——恋い恋いて 月待ちて詰む 白菊の 物思はしき 明けずもあらなむ
『白菊の君、あなたのことが恋しくて恋しくて閨を共にしたというのに身が焦がれる想いだ。あなたと過ごす夜は明けなければいいのに』
勢いのある流麗な字。ところどころ掠れているのは牛車の振動が原因。紙に対してほんの少しずれているのもそのせいだろう。これは、牛車に乗り込んだ後、すぐに書かれたもの。真意がどうであれ、獏良のことを考えながら書き上げた。その時間、バクラの頭の中は獏良で満たされていたはずだ。これは疑いようのない事実。そして、書き終えてから従者に文を託した——ちょうど空白の時間が埋められる。
「……お願い」
そばで控えていた下女に向かって獏良は口を開いた。
「硯箱を持ってきて」
*****
官職を持つ者の出仕する朝は慌ただしい。日が昇りきらないうちから支度をし、一番鶏が鳴く頃には宮廷に着いていなければならない。その代わり勤務は早くに終わるが、午後になると貴族同士の付き合いが始まる。和歌を詠むのも、盃を交わすのも、仕事のうち。人物の評価に関わるから疎かにはできない。宮中での地盤を固めるためだ。行事がある月はもっと忙しい。夜になることも珍しくない。有能な者になると、政務もそれだけ増える。
バクラは文台に肩肘をついて器用に筆を走らせていた。次から次へと書が積まれていくから、いちいち中身を読み込まない。単純作業と化していた。愚鈍な輩の分まで働かせられているのだと思うと馬鹿らしい。手元にある分を片づけ、筆の尾をガジガジと噛んだ。手早く終えたところで、また別の用事を押しつけられるから悪循環になる。さっさと隠居したかった。出家するのは御免だが。
使えない輩もそうだが、お高く止まった女御どもも気に入らない。御簾の向こうでくすくすと笑いながら男を値踏みしている。宮中で眉目秀麗と名高いバクラが用のために声をかければ黄色い声が上がる。用とは無関係の文まで渡されるから鼻持ちならない。その場で「脈なし」と返したら、しくしくと泣かれることもある。文を破り捨てないだけ有り難いと思うべきだ。教養はあっても浮ついた中身に読む気すらしない。どうせ文ならもっと歯応えのあるものの方がいい。
「鬼三位殿、白菊の君はいかがお過ごしかな」
同輩が帳をめくり顔を出した。口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「るせーな、墓守」
睨むバクラを物ともせず、墓守と呼ばれた同輩は隣へ腰を下ろした。
「随分可愛がっているようじゃないか。どうだい所帯を持ってみて」
「人ンちに首を突っ込んでくるならよォ、お前ンとこの三男坊をなんとかしろ。こっちにまで苦情が来てウゼェんだよ」
バクラがケッと吐き捨てると、さすがに同輩も顔をしかめた。
「うちの事情こそ貴様には無関係のはずだ」
二人が火花を飛ばしていると、「宵闇の君、文を持って参りました」童の声が外から聞こえた。
宵闇の君とは、三位に許された衣の色を着る者のこと、すなわちバクラのことだ。廻廊に出ると、庭に赤い頬の童が立っていた。
「白菊の君からです」
童は頭を下げてから腰を落とし、両手で文を掲げる。足元には疎らに生えた霜で濡れた草。白い息が小さな唇から細切れに吐き出されている。ちょうどバクラが獏良のことを初めて見たのは同じ時期だった。「あの日」の光景が一瞬だけ脳裏に浮かぶ。バクラは外廊下から手を伸ばして文を受け取った。
「愛妻は何と言ってる?」
「うるせえな」
茶化す墓守の同輩を黙らせてから文を広げると、すっかり馴染んだ匂いがふわりと香る。とても短い文が行儀良く紙の中央に収まっている。
『ご存知ありませんか?白菊は夜に咲く花ではありませんよ。今度は昼間に確かめに来て下さい』
バクラの口元にフッと微笑が浮かぶ。
「今日はもう引き上げるとするとか」
言うが早いか文台の上にある筆や書物を片づけ始めた。
「正気か?今夜は東宮主宰の宴があるんだぞ」
「歌詠ませられるのも飽きたんだよ。付き合ってられるか」
言うが早いか今読んだ文を懐に折り畳んで差し込み、颯爽と部屋を後にする。入れ違いに舎人が慌てた様子で駆け込んできた。「墓守殿、また弟君が騒ぎを……!」
呼ばれた墓守は苦々しい顔をして笏で額をこちんと打つ。
「ハイハイ、分かった。今行くよ。ったく……。妬けるね」
*
バクラが珍しく早い時間にやって来たと下女から報告を受け、獏良は部屋でそわそわと待っていた。後朝の文の返事を送ったものの、後から不安になってしまっていた。思い切りが良すぎたのではないか。卑しく誘っているように読めないか。
青くなったり赤くなったりしながら、部屋の中をぐるぐると回る。しかし、待てど暮らせどバクラは部屋にやって来ない。いつもなら何処からともなく現れるはずなのに。これでは通いを心待ちにしているようではないか。緊張の糸はあっさり切れ、獏良は苛立ちながら部屋から飛び出した。
屋敷中を探すまでもなく、所在はすぐに判明した。母屋に当たる寝殿で父親と楽しげに酒を汲み交わしていたのだ。獏良は屏風の影に隠れてその様子を観察した。バクラは盃を持って快活に笑っていた。夜の本性を知っていれば別人に見える。まさに貴公子然とした物腰だ。宮中での振る舞いになるのだろうか。父親も義理の息子の来訪が嬉しいらしく機嫌良く笑っている。他愛ない世間話から獏良には理解が追いつかない小難しい話まで話し込んでいた。興味深く二人を見入っていると、屏風に隠れているはずの獏良にバクラの視線が向けられた気がした。驚いて頭を引っ込めて、恐る恐る様子を窺う。変わらず二人は談笑している。目の端で捉えられたと思ったが、気のせいだったか。
「ところでお義父上。ようやく準備が整いました」
顔を赤くした父親が首を傾げた。
「うん?」
バクラは涼しげに瓶型の酒器から盃に酒をとくとくと注ぐ。円を描くように盃をゆっくり回し、揺れる丸い水面をじっと見つめた。
「ようやく。ようやくです。我が君を屋敷に迎えるときがきた。君が過ごし易いように屋敷を整えました。庭には木や花を植えました。部屋からも見えるように。池は少し広げました。様々な色の鯉を泳がせています。暖かくなったら舟遊びもできましょう。時間はかかりましたが。お待たせして申し訳ない。早く夫婦の契りを交わしたかった故に遅くなりました。お待たせした分、気に入ってもらえると思います」
「おお……おおっ……」
「君は冒険物語が好きでいらっしゃる。落ち着いて著す環境が必要です。かくいう私も君の創造する世界を待ち望んでいます。寂しい想いなどさせませんよ、永遠に」
父親は目にきらりと光る涙を浮かべて皺くちゃの笑みを浮かべた。
「あの子は幸せ者だ。君みたいな若人が婿で良かった」
獏良は屏風に背を預け俯いて、今の言葉を反芻していた。声が漏れそうになるのを両手で押さえ、小さく震えていた。
*****
「——早まった。よく分からない衝動に駆られて、とんでもない選択をしてしまった……。これじゃあ逃げ場がないじゃないか」
「へえ。よく本人を目の前にして言うなァ」
カポカポカポ——。鬼三位の屋敷に向かう牛車に揺られながら獏良はぼやいた。車輪がギイギイと重低音を鳴らし、起伏に合わせて時折大きく傾く。隣には鬼の貴公子が座っている。
「まあ、お前を手離す気なんざないから、精々覚悟しておけ。宿主殿」
笏が隣から伸びてきて、獏良の顎をくいと持ち上げる。その表情には落胆と了覚が入り混じっている。長嘆息を漏らし、行く末を案じるのだった。あないみじや、と——。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あないみじや→なんてこったい