方一町…百メートル角
妹背…夫婦、この話では弟にしました
『逢ひみての……』
宮中まで噂が聞こえてきたのは、まだ元服前の頃だった。
由緒ある血筋を引くバクラは早くから宮中への出入りを許されていた。それゆえに気取った貴族に対してとっくに嫌気が差していて、華やかな上流階級社会を倦んでいた。口元を隠してホホホと笑い、恋に現を抜かす。ちんたらと和歌を詠んでは、蹴鞠に熱中する。高貴な貴族のふりをするのは上手くなったが、ちっとも慣れる気がしなかった。上流貴族としての対応を求められる場面では、いつも虫酸が走る。髪をきっちりと後ろに束ね、折り目正しく振る舞い、いかに周りの殿上童たちに溶け込めるかを戯れの一つと思う他なかった。
男の身でありながら美しい容姿を持った童がいるという話題が繰り返されるようになったのは、ちょうどその頃。身分の低い家柄の者で、宮中入りはまだ認められるはずもないから実際に見た者は少ない。「白菊の君」「白雪」「白梅花」と称されていた。分かっていることは、少々風変わりな美しさということだけ。それだけに噂が噂を呼び、貴族たちの想像を大いに膨らませた。
ある者は天女のごとき美しさと言い、またある者は物の怪の類いではないかと言う。恋文を送ってみると言い出すものさえいた。また貴族どもの暇潰しが始まったとバクラは冷ややかな視線を送っていた。
周りがあまりにも騒ぐものだから、正体を掴んで大したものではないと見せつけてやろうという心持ちになり、従者に屋敷の場所を探るように言いつけた。貴族たちの間抜け面が見たい一心だった。
従者はどこからか情報を手に入れ、バクラを噂の君がいる屋敷に誘った。裏庭の塀が小柴垣になっていて、そこから様子を見られるのだという。バクラは手で小柴を掻き分け、できた隙間から中を覗いてみた。「白菊の君」が庭に出ていたのは、ひとえに運が味方をしたとしか言いようがない。
目の前の光景は夢か幻か——。噂に違わず美しい容姿の童が庭に佇んでいた。髪も肌も穢れのない白。あちらこちらにまだ残っている雪と共に溶けてしまいそうに儚い。ほっそりと痩せすぎの体型が余計にそう思わせた。機嫌がいいのか、微かな鼻唄が聞こえてくる。
「お坊ちゃま!」幻想的な雰囲気を乱す声が庭に響き、一人の女が血相を変えて童に駆け寄る。「お風邪を引いてしまいます!」
童は気にする様子もなく、女に笑いかけた。
「いいことを思いついたんだ。雪景色の中で武者が大立ち回りをする。悪鬼魑魅魍魎を切り捨てて、どんどん強くなっていくんだ」
今にも掻き消えそうだった童に生気が宿り、明るい調子で「いいこと」について説明をし始める。絵巻物から人物画が飛び出して血が通う生身の人間になったよう。
白色の童は目に見えない刀を握り、「エイッエイッ」と型の一つもあっていないめちゃくちゃな素振りをし、その場で楽しげにくるくると回る。広げた両手が何ものにも縛られていない様を表しているようだった。
「お坊ちゃまは本当に夢物語が好きでいらっしゃる……」女中らしき女は困ったように笑い、手にした羽織で童を包んだ。「もうお戻りになりませんと。旦那様が心配されますよ」童も今度は女中の言に従順し、屋敷の中へ消えていった。
帰りの牛車の中でも、バクラはまだ夢の中にいるようだった。無邪気な笑顔が目に焼きついている。風景がチカチカと輝いて見えたのは初めてだった。天女や物の怪は実に的を射た例えだったのだ。霞のような存在が生き生きと動き出した瞬間は胸に迫るものがあった。
「白菊の君か……」
きっと、あと数年もすれば出仕することになるはず。学者の家系では位階も高が知れている。バクラより遥か下の身分であることは間違いない。これは生涯変わることのない絶対的身分の差だ。
宮中に出仕した暁には、たっぷり世間知らずの坊をたっぷり扱き使ってやろう、と薄く笑って牛車に揺られるのだった。
*
ところが、いつになっても白菊の君が出仕したという話は入って来なかった。バクラは元服を済ませ、従五位下という位を与えられていた。不審に思って調べると、どうやら父親が御簾の奥に隠してしまっているらしい。異例のことだが君の美貌を思えば分からなくもない。恐らく月日が経って美しく成長しているのだろう。そうであれば、父親の愚行にも説明がつく。
同じ頃、宮中に変わった作り物語が流行り始めた。若武者が物怪を討伐していく血生臭い内容で、気取った貴族たちは公に持て囃したりはしないが、みんな夢中になっていた。そのうちに筆者が白菊の君と知られるようになり、ますます注目を集めた。
最初のうちは物語に興味がなかったバクラも、あの深窓に咲く花が書いた草子と聞いて写しを手に入れた。覗き見た庭で荒唐無稽なことを言うと思ってはいたが、これがなかなかどうして面白い。紙を捲る手が止められず、夜通し読んでしまった。自由な発想と文の端々から感じられる教養。かごの中の鳥が著したとは思えないほどの世界が広がっていた。どのような顔をして文机に向かっているのだろうか。是が非でも見てみたい。そして、出来上がった草子を真っ先に手にできたら心地よいに違いない。
*
数年経っても、白菊の君は奥の間から出ることはなかった。バクラの位階は従三位。破格の出世に周囲の大人たちは舌を巻いた。もはや他の貴族たちとは一線を画す上級官人だ。もう誰にも口を出させない。本性を隠して折り目正しく振る舞っていたが、その必要はなくなった。方一町という膨大な広さの屋敷を持つことを許され、確固たる生活基盤を築いた。
元々有能であるバクラが尊大な態度を見せても、 真っ向から立ち向かえる者などいない。面倒事になりそうなら、その場で周りを黙らせてしまう。適切な言い回しをすれば、逆に褒めそやされることもある。貴族社会での生き方は熟知しているのだ。影で鬼三位とも呼ばれるようになった。
その頃になると、権力者の娘との縁談が増えた。高位貴族同士の婚姻は互いに利がある。しかし、バクラはすべての話を蹴った。型に嵌まることを忌避したからだ。相互扶助になるとはいえ、相手に利用されることも気に入らなかった。そして、いつも庭に佇む白き少年の姿が頭の隅にちらついていたから——。
*****
その年の秋、観月の宴でも白菊の君の話題が上がった。詩歌も終わり、宴は終盤。月の姿を杯に映し、貴族たちは上機嫌に酔っていた。
「時に噂に聞く白菊の君のことだが、拝顔の栄に浴した者はおるか?」
「慎ましやかな男君ゆえ、なかなか叶わぬ」
「どれ唄でも送ってみようかの」
笑い声に包まれる宴の中で、杯を持つバクラの手がぴくりと動いた。
「後宮に、との声もあるとか」
「よもや……」
笏を口元に当て、声の調子を落とし、信じがたい噂話までする始末。絵空事を口にするのも貴族が好む遊興の一つだ。慣れた光景であるはずが、バクラの目が険しくなる。
もし仮に、白菊の君が後宮に召し上げられたとしたら、どんなに高位の者でも手が届かなくなってしまう。さらに帝の目に留まれば、それこそ永遠に……。
カツン——と硬い音が辺りに響き、宴の席は水を打ったようにしんとなった。貴族たちの目が音の出所を探る。
「——失礼」
バクラの足元に落ちた笏、宙には所在なげに軽く開いたままの手。誰の目にも今の音は笏を誤って床に滑り落としたように見える。すべての視線が集まったところで、
「どうやら銘々白菊の君のことが気になると見える。ならば、私がその一輪花を摘み取って見せよう」
バクラは不敵な笑みを浮かべて朗々と宣言した。一拍置いて一同から感嘆の声が上がる。無責任な噂話からバクラの宣言に場の話題ががらりとすり替わった。成否の賭け、褒美はどうするか、深夜まで興奮が冷めやらず、宴がお開きになった後も会合は続いた。
バクラは宣言してすぐに屋敷を整え始めた。煌びやかな調度品は好みに合わないから、屋敷全体が淡泊な雰囲気になっている。だから白菊の君のいた庭に寄せるようにした。家畜は環境が変わると病む、と聞いたことがあった。せっかく摘んだ花を枯らしては元も子もない。白菊の君は白梅花とも呼ばれているから、白梅も植えることにした。
そうして屋敷に手を加えながら、獏良家を訪問した。下位の貴族には否とはいえない状況を作り出して——。
「其方の男君を正室に迎えたい」
*****
父親をはじめとする家の者はすぐに首を縦に振ったというのに、肝心の本人だけはいつまで経っても拒絶していた。婚姻を結ばざるをえなくなるように仕掛けた謀略にかかったときは勝ったと思ったはずが、弟背の契りを交わしても態度が変わることはない。
空が白み始めたときにやっと顔が見えたときは心が震えた。頬に濡れた跡があっても、目を閉じていても、清浄な美しさに翳りはない。幼い頃のまま。静かな寝息を立てている姿が愛らしい。バクラは乱れた髪を手で整えてやり、滑らかな頬に触れた。己の所有物であるという事実に喜びが湧き上がった。灯火の乏しさゆえに、夜間では表情が見えなかったことが悔やまれる。どのように涙を溢していたのだろうか。
せっかく手に入れた深窓の花をずっと眺めていたかったが、早急に出仕の準備をしなければならない。名残惜しく閨を後にすることになった。夜が短いと感じたのは、バクラにとって初めてのことだった。
後朝の文は夜を共にした相手に対する最低限の礼儀だ。出仕前にしたため、従者に託した。このような場面で使われる気の利いた文は決まっている。だから大して悩まずに筆を走らせた。その日の午後に返事は届き、
『水をやっておけば穂が出ると思ってる? お生憎様。どんなに風が吹いても尾花は靡かないよ』
という内容を目にしたバクラは「ブハッ」と噴き出し、しばらく肩を震わせて笑っていた。強引に縁談をまとめてしおらしくなるかと思えば、小生意気な返事を送りつけてくる。ただ従順であるより、余程面白い。嗜虐心が擽られてしまうではないか。
バクラはできるだけ獏良の元へ通い、文も送った。どんな返事が来るか待ち遠しくなり、文の内容に技巧を凝らすようになった。低能な貴族どもを相手にするより充実している。打てば響くとは、このことをいうのだと思った。必ず予想以上の反応が返ってくる。
紅葉の枝が送りつけられてきたときは、どうしてやろうかと嬉々として筆を取った。
そうして知らぬ間に、周囲の反応や評価は気にならなくなった。噂の君を口説き落とせば宮中で株が上がるという目論見は少なからずあった。しかし、今は目の前にいる獏良とのやり取り以上に優先することなどないと思うようになっていた。
自分の言動に翻弄されている獏良を見るのはとても気分がいい。誰もが憧れる白菊の君を征服する優越感もある。目の前でぽろぽろと涙を溢す姿はいじらしいと思った。
だから、何処ぞの馬の骨が図々しくも獏良の元へ通うかもしれないと考えれば焦燥感に苛まれ、どす黒い感情が湧いた。可能性は低くくても獏良の父親が許せばそれが罷り通ってしまう。通いとは、相手を縛れないもの。なるべく獏良の元へ通うようにはしても、四六時中監視するのは無理だ。
時間をかけて身も心も手に入れようというのに、あっさりと鳶に掻っ攫われるなどあってはならない。バクラは屋敷の営繕を急がせた。そして、冬の間に屋敷は整い、獏良を迎える準備ができたのだ——。
*****
バクラの腕の中で獏良は静かな寝息を立てている。居住を移してから獏良は目立った反抗はしなくなっていた。軽い嫌味は口にしても棘はない。 帰宅すれば部屋で静かに待っているし、食事を共に取りながら会話もする。朝は急がずとも時間まで抱きしめていられる。利点ばかりだった。
空き時間には唐から取り寄せた遊戯に耽る。獏良がこれをいたく気に入り、バクラが屋敷にいるときは何度も引っ張り出してきた。出向が長引いて屋敷を空けていたときには、獏良はおずおずと書き上げた草紙を差し出した。バクラは脇息に肘を置いて休息を取りながら、まだ墨痕が真新しいそれを読む。
「これはお前が気に入ってる盤上遊戯と組み合わせたら面白いだろうな。よく出来てる」
率直な感想を述べると、獏良ははにかんだ。
息も凍るような寒さが徐々に和らぎ、庭の梅の木には白い花が咲き始めた。寝殿から中庭に下りるとよく見える。
「もう少し暖かくなったらお花見できるかな」
節くれ立った幹から澄んだ青空に向かって伸び伸びと広げる枝を見上げて獏良は言った。
「望むなら池に舟を浮かべるか。摘まむものも用意してやる」
傍らに立つ伴侶の顔をじっと眺め、
「もう餅菓子はお断りだからね」
軽く口を尖らせてから、幼く見える無邪気な顔をした。
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一度やってみたかったので、好きなものを詰め込みました。