ばかうけ

この話は原作+映画『THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』終了数年後の内容となっています。
映画を未視聴の方、雰囲気を壊したくない方は、お手数ですがブラウザバックでお戻り下さい。


しとしとと雨が降り続ける中、獏良は一人で道を歩いていた。
町全体に靄がかかり、よく知る風景とはまるで違う。異世界へ迷い込んでしまったかのよう。
地面の湿るじめっとした匂いが鼻につく。
傘の内側まで入り込んでくる滴が肌にまとわりついて不快だった。
教科書やルーズリーフが詰まった背中のリュックも背中に貼りついている。
まだ日が落ちる時間までだいぶあるはずだが、雨のせいか人通りも少ない。
こんな日は誰だってあまり外に出たくないはずだ。
雨の臭いも音も獏良を陰鬱な気分にさせる。
マンションに辿り着くと、閉じた傘を振って滴を落とした。
エントランスにあるポストは空だった。
エレベーターに乗って六階まで上がり、真っ直ぐ廊下の端まで進む。
ドアの前でバッグから鍵を取り出し、鍵穴へ挿し込み……回す前に獏良は深く息を吐いた。
いつの間にか下がってしまった口の端を無理やり持ち上げ、笑顔になっていることを確認する。
――うん、大丈夫。
一呼吸置いてから勢いよく解錠した。
「ただいまっ!」


白妙の夜明け


薄暗い廊下の先にあるリビングの隅に一人の男が獏良に背を向けて座っていた。
「ただいま」
獏良はもう一度男に声をかけた。玄関前で作った笑みのまま。
声に応えて振り返った顔は獏良と同じ。
男は何も返さなかった。
じっと見ていればやっと気づく程度に小さく頷いただけだ。
それでも獏良は微笑みを崩さずに言葉を続けた。
「挽き肉が安かったから今日のご飯はハンバーグだよ。楽しみにしててね」


バクラが獏良の元を去ってから数年が経った。
王と盗賊が闘っていた最中の記憶は獏良にはない。
目を覚ましたら父親がオーナーを務める美術館の中にいて、すべてが終わっていたのだ。
結局、二人は最期に言葉を交わすことなく別れた。
それから様々なことがあった。卒業前に起こった事件やそれぞれの進学。どれも一口に語れるものではない。
しかし、獏良にとってはバクラと共に過ごした時間には遠く及ばない。
獏良の心と身体に大きな傷を残して、王と千年アイテムにまつわる一つの物語は幕引きとなった。
忙しない毎日の中で一生残ると思われた傷も薄まりつつあったが――。
二ヶ月前、獏良は大学帰りに自宅マンションの前でバクラを見つけた。
バクラは別れる前と変わらない姿でマンションを見上げていた。
もう千年リングは塵となって消えたはず。
予期せぬ再会に獏良は驚き、混乱をしながらバクラの手を掴んで自宅へと連れていった。
あまりのことに我を失ったがゆえの行動だが、握った手が温かいことには気づいていた。
肉体がある。
それも信じがたいことだった。
かつて獏良の中に棲みついていた存在は、一人の人間として再び目の前に現れたのだ。
自宅で二人きりになり、やっと獏良はバクラに向かって口を開いた。
これで他人の目を気にせずに思う存分取り乱すことができる。
辛うじて働いていた理性がバクラを家に連れて帰るという行動をさせていたのかもしれない。
「なんで君がここに?!」
しかし、バクラの答えは耳を疑うものだった。
「お前は……誰だ?」
バクラはすべての記憶を失ってこの世に戻ってきたのだ。


隠し事をしているのではないか、嘘をついているのではないかと、最初のうちこそ獏良は勘ぐっていた。
何を言ってもバクラは顔色一つ変えなかった。
「アテム」や「千年アイテム」という言葉を出しても、まったくの無反応だった。
獏良は誰にも相談できずにバクラの世話をし始めた。
増えた食費はアルバイト代でなんとかなった。幸い使わない部屋は余っている。服は獏良が着古したもの。
バクラは過去の出来事だけでなく、基本的な日常動作以外のすべてを忘れてしまっていた。
風呂の入り方や箸の持ち方を一から教えるには骨が折れた。
飲み込みが早くなければ、投げ出してしまうところだった。
獏良が話しかけない限り、バクラは部屋の隅で膝を抱えて人形のようにじっとしていることが多い。
こうなると、もう演技とは思えない。
もしかしたら、よく似た別人という可能性もないわけではない。この世に似た人間は三人いるという。
記憶がないだけで仕草や話し方は前と同じだった。
さらに、たまたま見せたゲームへの反応が決定的だった。
普通のオセロだったが、ルールを簡単に説明すると、すぐに理解をして獏良に勝てるようになったのだ。
他のどのゲームを見せても同様だった。
理解が早いだけではなく、応用力もある。獏良が教えてない手を編み出すのだ。
驚いて獏良がどういうかとかと尋ねると、
「こうすると勝てると思った」
という答えが当然のように返ってくる。
これは一朝一夕でできるものではない。
確かにバクラなのだと認めざるを得なかった。
部屋に飾ってあるモンスターワールドのフィールドも見せた。
バクラはフィールドを見ても眉一つ動かさなかった。
プレイするのに二人では少ない。
できなくもないが、やはり三、四人いなければ、どういうゲームか分かりづらくなってしまう。ルール説明にも時間がかかる。
TRPGについては追い追い触れてみようと獏良は思っていた。


獏良が夕飯の準備を進めていると、バクラが小さな箱を持ってリビングに現れた。
「今度はそれ?」
ボールの中でハンバーグのタネを捏ねながら獏良は声をかける。
バクラ用にと空けた部屋はゲーム倉庫だ。
クローゼットの中に獏良が買ったものや父親からの土産物、様々なゲームが詰まっている。
中にはどうやって遊ぶのか分からないものさえある。
簡単なものから少しずつバクラと遊んでみることが日課になりつつあった。
何もしなければ会話すらなくなってしまうこの状況で、ゲームを介してコミュニケーションを取れるのは助かる。
記憶を取り戻せるかもしれないという目論みもあったが、今では単純に一人ではできないゲームが二人で楽しめる喜びとなっている。
獏良も初めてやるゲームの説明書を眉間に皺を寄せて読んでいると、横から見ていたバクラの方が自分なりの解釈を披露することさえある。
キッチンカウンター越しにバクラが箱を見えるように上げた。
「あ……」
獏良の手が止まった。粘り気のあるタネが手の中でぐちゃりと潰れる。
バクラは蓋を開け、中のものを見ると眉を潜めた。
「なんだ、この紙切れは」
「マジック&ウィザーズ。カードゲームだよ」
小さな箱の中には大量カードが詰まっていた。
獏良は動揺が声に混じらないように慎重に話した。
「ああ、この町に住むのに必須なゲームだと言ってたな。これか」
少しの感慨もない目でバクラはカードを見下ろした。
やはり、覚えていないのだ。
今のバクラにとっては、部屋にあるたくさんのゲームの中の一つでしかない。
「食事をしたらやってみようか?」
平常心平常心と自分に言い聞かせ、獏良はハンバーグのタネをまとめ始めた。


食事が終わり、ゲーム部屋の座卓の上にカードを広げた。
獏良が買い集めたものもあるが、バクラが手に入れてきたものも混じっている。
どのカードを見てもバクラの反応は変わらない。
「一ターンの流れは大体こんなものかな」
デュエルは基本ルールだけではなく、各カードの効果も把握しないと遊べない。
基本の説明だけでも時間がかかってしまっていた。
実際にやって見せるのが一番だが、もう一人必要になる。
今日遊ぶのは無理かなと獏良が思ったとき、
「カードの種類が多いんだな。デッキを組むには時間がかかりそうだ」
机いっぱいに広げられたカードを見つめながらバクラが呟いた。
今日だけではなく、これまでも余計な説明を強いられずに済んでいた。
これ以上ないほど教え甲斐のある生徒だと獏良は思う。
「そうだね。デッキを組む楽しみもあるんだよ。例えば、遊戯くんのデッキは面白いんだ。ただ強いモンスターを入れるんじゃなくて玩具箱みたいでさ。でも、遊戯くんに勝てる人はなかなかいない」
獏良は喋りながらちらりとバクラに視線を送ってみるが、やはり変化はない。
あくまでバクラにとって、「遊戯」は獏良の友人の一人という認識だ。
「倒されたモンスターはここに置いておくだけか?」
バクラが山札の上にあるスペースを指差した。
ルールを説明するために簡易的にフィールドを作ってあった。
「うん。デッキと混じらないように分けて墓地に置いておく。特別な効果のあるカードを使わない限りは使えなくなる。例えば破壊されたモンスターを生き返らす死者蘇生とか。墓地にあるカードが場に影響を与えることもある」
やはり、細かい説明もしなくてはならないから、実際にデュエルができるようになるには時間がかかる。
自分に合った戦術を考えるようになるまでには、どれほど日数が必要だろうか。
「なら……」
バクラは墓地を見つめて薄く笑った。
「手札制限のない墓地をあえてモンスターで満たしてやるっていうのもアリなんだな」
――やっぱり。君は……。
その言葉に獏良は息を呑んだ。
過去のことをすべて明かしてしまいたい。湧き上がる衝動を懸命に抑え込む。
何もかも失ってしまったバクラに受け止めきれるのか、獏良はまだ測りかねていた。
だから、バクラの言葉に頷くことしかできなかった。
「そうだね」


獏良は湯船に身体を沈め、バクラの前では見せない憂いを帯びた表情を浮かべた。
唇からは勝手に息が漏れ出した。
浮かんだ汗が細い顎を伝い、湯の中へ落ちていく。
時折バクラがかつての姿と重なって見える。
その度に獏良は胸を掻きむしられる思いをする。
一人で抱え込んでしまっているため、余計に心が重くなってしまう。
相談をすることも考えなかったわけではない。
バクラを見つけたときに、事情を知っている遊戯たちや警察に連絡をすることも可能だった。
遊戯たちなら親身になって相談に乗ってくれるだろう。
しかし、見た目がそっくりなだけの別人だったら?
要らない迷惑をかけてしまう。
警察であれば、海馬コーポレーションから提供されている住人管理システムを使い、すぐさま調べてくれるだろう。
やはり、バクラ本人だとしたら?
住民登録されていない人物のデータなど、いくら探しても出てこない。
そんなことを考えているうちに数週間が経ってしまい、いよいよ相談しづらくなってしまったのだ。
バクラ本人であることは確認できたというのに。
結局はあれこれと理由をつけて他人に打ち明けることを避けていたのだと、獏良は今になって気づいた。
バクラの世話をして、一緒に暮らしていると知られたら、さすがの友人たちも首を傾げるだろう。
獏良自身もおかしいと自覚している。
すべて一つの想いを軸に獏良は動いている。
それを確かめるのは、まだ早い気がした。
まだまだ気持ちの整理がついてないのだ。
獏良は両手で湯を掬い上げ、顔にゆっくりとかけた。


「次、入って」
パジャマ姿の獏良がタオルで髪を拭きながらバクラに声をかける。
バクラは放っておくと、ゲームと食事の時間を除き、リビングの床に座ったまま一日を過ごしてしまう。
今にもどこかへ消えてしまいそうな雰囲気だ。
数年前、獏良の元から去っていってしまったときのように。
それが堪らなく恐ろしくて、獏良はなるべくバクラに声をかけるようにしていた。
答えはいつも素っ気ないものだったが。
バクラは気怠げに腰を上げ、浴室へ向かっていった。
いつも構ってはいられない。
昼間は大学、帰宅してもレポートや二人分の家事をしなければならないし、アルバイトだってある。
時は止まらずにどんどんと流れていく。
忙しさにかまけて、どうしても楽な方向に考えてしまう。
早く思い出して、すべて上手くいけばいいのに、と。


バクラは風呂椅子に腰かけ、泡立てたスポンジで身体を擦っていた。
洗い場の棚にはボディソープやシャンプーのボトルが綺麗に整列している。
この家に居候するようになってから二ヶ月が経つ。
訳も分からないまま獏良に手を引かれ、
『身体を洗うときはこれ使って。このスポンジは君専用にしていいから』
初めの頃は獏良の言うことに頷くだけだった。
この生活に慣れ始め、様々なことを学んでから気づいた。
獏良はとても優しい人間だが親切すぎる。
見ず知らずの人間にここまではしない。
いつでも獏良はバクラに対して柔らかい笑顔を向ける。
他の感情を出したことはない。最初に出会ったときを除けば。
思えばあれが獏良の素の表情だったのではないか。
偽りの表情とは思わない。人間がコミュニケーションを取るときに重要なのは笑顔を作ることだ。
バクラは記憶がなくても短い生活の中で理解した。
それでも、獏良の笑顔を見ていると胸の奥がざわつく。
笑顔の裏に隠していることはないか。
きっとそれは……。
バクラは桶に溜めた湯を勢いよく身体にかけた。
白く曇った鏡を手で拭う。
鏡に映るのは獏良と瓜二つの顔。
どう見ても他人とは思えない。
しかし、獏良はそれについては何も言わないのだ。
いくら考えても疑念は晴れない。
――あいつはオレのこと知っているのか。
獏良と出会ったときに握られた手は温かかった。
その時の温かさだけを信じ、ここにいるのだ。
あっという間に湯気で鏡はまた曇ってしまった。
拭っても拭っても結露が生じ、鏡が白く覆われる。
ゲームを獏良としているときだけは、煩わしいことを考えなくて済む。
考えても考えても、頭の中は空白だらけだ。
底なしの井戸を覗き込むような感覚。
バクラは鏡を拭うことを諦め、その場に立ち上がった。


獏良が黙れば二人の間に会話はなくなる。
ずっと話しかけているわけにもいかず、家にいる間はやらなくてはならないことがたくさんある。
大学で出される課題に加え、炊事に洗濯、掃除。
今日は休日なので普段疎かになっている床拭きを始めたところだ。
その間バクラはリビングの隅に座り、窓から外を眺めている。
与えられた自室にもほとんど戻らず、すっかり定位置になりつつあった。
バクラの後ろ姿を横目に、獏良は黙々と長柄を持つ手を動かす。
掃除が終わったらお茶にしようか。茶菓子はあったかななどと考えながら。
バクラと暮らし始めてから、考え事が多くなった。
もちろん、頭の中はほとんどバクラのことで占められている。
今はなんとか平常心を保っているが、このままではいつか獏良の方が限界を迎えるかもしれない。
知らない振りはできない。
今のバクラに過去の話をしたところで、鬼が出るか蛇が出るか。
闇の力を失ったとはいえ、世界を闇に染めようとしていた存在なのだ。
千年リングの元所有者として、宿主として、放り投げ出すという選択肢はなかった。
獏良一個人としての感情もある。
相談はできないにしても、話を聞いてくれる相手が欲しかった。
このままではパンクしてしまう。
そのとき、ズボンの後ろポケットが震えた。
バイブモードにした携帯の通知だ。
獏良は掃除道具を持ったまま、もう片方の手で携帯を取り出した。
画面にはよく知る相手からのメールが届いたと表示されていた。
「あ……!」
その名前を見た途端、獏良の顔に光が差した。
拭き用具を壁に立てかけ、流行る気持ちを抑えながら手早く返事を送る。
獏良の慌ただしい動作に気づいたバクラは、物言いたげな視線を投げかけていた。
「友だちから連絡が来たんだ。ちょっと話してくるね」
返事もそこそこに獏良は携帯を掴んだまま自室に駆け込んだ。
机にあるパソコンの電源を入れる。
立ち上げの時間すら長く感じ、指でトントンと机を叩いた。
デスクトップ画面が表示されると、すぐに通話ソフトを開き、登録済の友人名をクリックする。
コールをしている間にヘッドセットを装着した。
やがて、よく知る相手の顔が画面上に映し出された。


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