*パラレル設定です。「遊戯王」とは一切関係ない人物も多く出てきます。それでも、大丈夫な方は↓へドウゾ
獏良の目が覚めたのは、東の空が白み始めた頃。もう一人を起こさないように窓障子を少しだけ開けた。最初に目に映ったのは白。木々や畑、家屋が濃い朝靄に包まれている。まだ集落全体が微睡みの中にいるようだった。
早く眠りに就いたせいで予定より大分早く起きてしまった。もう一度布団に潜るか、活動を開始するか。真っ白に染められた世界を寝巻き姿のまま見つめてしばし考える。
答えが出ると、荷物から洗面用具を取り出して音を立てないように部屋を後にした。
これから実地調査ができると思うととても眠れそうもなかった。それに朝の空気を吸ってみたい。
階段を軋ませて一階へと向かう。下りた先は玄関口になる。廊下が左右に広がっていて、家の外周に沿うように進むと縁側に出る。雨戸は開け放たれていて、朝の湿った空気が獏良の肌に沁みた。
屋敷の周りに塀はなく、背の低い生垣のみで敷地が区切られている。そのお陰で外の景色も見易い。靄に溶け込んだ林や畑が垣根の向こうに広がっている。
何となく朝の景色を独り占めしたような気になって、獏良は大きく伸びをした。
「うーん」
ひんやりとした新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。
やはり起きてきて良かった。もう少ししたら他の者も起き出して、ゆっくりできなくなってしまうだろう。
縁側は裏手まで回り込んで洗面所と繋がっている。庭を横目に前へと進んだ。角を折れたところで、庭に申し訳程度に植えられた低木の影に人の姿を認めた。
起きていたのは獏良だけではなかったのだ。少し残念に思いながらも会釈をする。その人物は獏良と年の頃はそう変わらないように見える。昨晩には見かけなかった。この家の住人だろうか。
烏羽色の着物を着流し、帯は薄菫色。端正な顔立ちに色素の薄い長髪。
挨拶の言葉は獏良の口から出なかった。口を開こうとして、相手の顔を見た途端、喉の奥へと引っ込んでしまった。
なぜなら、相手が険しい目つきをしていたからだ。顔が整っているだけに迫力がある。
獏良以外の何かに向けられているものかと思ったが、周囲を見ても他に注目するようなものなどない。
青年は怒りの表情のまま、つかつかと獏良の方へ歩み寄ってきた。
「お前、こんなところで何をしている!」
空気を震わせる怒声に獏良は怯んで後退る。
「早くこの村から出ていけ!」
二人の距離はあと数メートル。縁側まで上がりかねない剣幕の青年。獏良は身を固くした。
すると、青年は突然足を止めた。視線を周囲に巡らせ、眉間に皺を深く刻む。そして忌々しげに舌打ちを一つ。獏良が話しかける間もなく踵を返して庭から去っていった。
獏良は狐に摘ままれたような心境のまま身支度を整え、用意された朝食にありついた。
あれはなんだったのか。訊ねたい気持ちはあっても、昨日会ったばかりの一家が相手では気が引ける。助手仲間とは軽い話をできるほど関係性を築けていない。何もなかったことにした方が丸く収まる気がした。
村の青年がよそ者を気に入らずに理不尽な怒りをぶつけてきた、そんなところだろうと無理やり理由を作って飲み込むことにした。胸に蟠りが残ったままで。
獏良の沈んだ気分を一掃したのは教授との調査だった。朝食後すぐにお呼びがかかり、待っていましたとリュックを背負って屋敷を飛び出した。
他の学生は体調不良を理由にして召集に応じなかった。教授は特に気にした様子はなかったが、一度に獏良以外が倒れるなんてあまりにも不自然。しかも、全員が朝食をしっかり取っていた。行きの電車の中で獏良が感じた印象は正しかったということか。
少し呆れはするが、それ以上の感情は生まれなかった。むしろ、教授と一対一で指導が受けられることを幸運に思った。
二人は地図を片手に道を歩きながら集落の景色を写真に収めていく。その土地の文化を知るためには地形を把握することが重要なのだ。まず土地があり、気候があり、そこに人が居着く。どのように集落が生まれたのか教授と話し、想像するだけで有意義な時間を過ごせた。
そのうちに、共通点は眼鏡くらいなもので外見は似ても似つかないのに、積極的に外を歩き回る様子がどことなく父親に似ていると思うようになっていた。
昼になったところで集落全体を見渡せる高台に腰を下ろし、持参したおにぎりを頬張る。
家屋は地図上でいう等高線に沿って建てられており、山の裾に向かうに従ってその数が増えていく。つまり高台からは扇状に広がって見える。
決まりがあるわけではなく、自然とこのような形になったのだ。不思議な現象に目を奪われながら、獏良はシャッターを切っていた。
昼食の後は、集落唯一の神社へ向かった。神社といっても小規模なもので、今にも倒れそうな木製の鳥居と錆びた鈴がぶら下がっている拝殿のみ。狛犬すらいない。
代わりに大人の背丈は優に越える半壊した石像が一つと膝下ほどの小さな石像がいくつかある。
寂れているようでいて、葉がほとんど落ちてないところを見ると、こまめに掃除をしているらしい。
「何を祀っているんでしょうか」
しゃがみこんで小さな石像と見つめ合いつつ獏良は言った。石像には人の姿に似たものが掘られている。道祖神のようなものかな、と頭を捻る。
一方で大きな石像は何かを象っているらしいが、頭部に当たる箇所が大きく欠けていて正体は分からない。胴体から四肢以外のものが生えているところからすると、他に人ではないことは確かだ。
教授は拝殿の脇にひっそりと立てられた看板の表面を撫でた。
「ここにこの神社の由来が書いてある。建てられたのは、そう古くはないね」
昔、村にて山の神を祀っていた。その神、気性が荒く傲慢、やがて村民により恐れられるようになる。村民の信仰を失った神は、悪鬼へと身をやつす。
困り果てた村民の元へ外より小さき神々が訪れる。小さき神々は神人和合の道を信条とし、村民と手を取り合う。
邪悪なる神、数では敵わず、村を解放する。村に平和が訪れ、村民には小さき神々より賜った力が子々孫々まで受け継がれていったという。
「その石像は小さき神々になるんだろうね」
「精霊のようなものでしょうか」
看板に書かれているのは、よくある昔話を元にした話のようだった。悪いものがいて、それから超常的な存在が現れて人間たちを救う。この場合の悪いものは、自然災害か病であると考えるのが一般的だ。それらを擬人化したものを鬼や悪魔と人は呼ぶ。
「もしかして、元々祀られていたのは悪鬼の方で、何か事情があって信仰対象が変わったとか……」
獏良は教授を倣って看板を凝視する。木でできた看板は朽ちかけ、墨はところどころ掠れ、読みづらい。
「そう考えるのが自然だね。だとすると、大きな方の像は旧神ということになるかな。この村の人々は外から持ち込まれた信仰を受け入れたわけだ」
「マレビトですね」
文章をメモに写し取りつつ獏良が頭の引き出しから取り出せたのはその言葉だった。教授は満足げに頷く。
日本では外から来訪するものをマレビトと呼び、信仰と結びつきやすい。マレビトを歓待することを風習とする地域も多い。外から来たものを丁重に扱えば福を呼び、粗末に扱えば罰を受けるという。盆の文化を見れば分かりやすい。外からやって来た霊を迎え、供養した後に送り出す。ナマハゲなど風習として地域に根づいていることもある。
獏良の知識はそこまでで、この集落と信仰が繋がるまで至らない。
「でも、マレビトがそのまま居着く、なんてことがあるんですか?大抵は福をもたらした後は消えてしまうんじゃ?村人が神がかり的な存在になったというのも変わってますね」
教授は顎を撫でて口を黙り込んだ。看板に書かれた文を視線で辿り、
「この村の歴史に詳しいお年寄りに話を聞いてみたいな」
獏良に向かって微笑みかけた。
「面白い研究テーマになりそうだね」
良かった。ちゃんと手助けにはなっているらしい。獏良はほっと胸を撫で下ろす。助手のつもりが足手まといになってしまっては意味がない。
その後は教授の指示に従って境内の撮影を細かにしていった。拝殿、鳥居、看板、石像――。
もはや何の形をしていたかすら分からない崩れた石像をファインダー越しに見つめ、神として祀られていた頃の姿を想像してみた。集落から追い出された旧神はどこへ行ってしまったのだろうか。存在しないものになってしまったのだろうか。
神社の主のことよりも、なぜだか心に引っかかって離れない。
――どんな姿をしていたんだろう……。
カシャリ――。
神社での調査が終わったのは三時過ぎ。聞き込み調査は明日にすることにして二人は拠点に戻ることにした。
太陽が西の空に傾き、集落全体に影が落ちつつある。屋敷に入ろうとして、庭でショートヘアの女が落ち着かない様子で辺りを見回しているのが目に入った。
獏良が声をかけようか逡巡している間に向こうが気づき小走りで近寄ってくる。
「ねえ、あの子見なかった?!」
「え?」
上滑りする女の言葉からは状況が掴めない。根気よく訊き返し、得られた断片的な情報を繋げてみると、もう一人の女が昼過ぎから姿を消したということだった。
「荷物は?!」
「あった。外の空気吸ってくるって言ってただけなのに……」
女の顔からはすっかり血の気が引き、二人で囁き合っていたときとは別人のように見える。自信なさげに視線を落とし、震える指を交差させている。
これが地元ならば、これほど取り乱したりはしないだろう。見知らぬ土地で山の中となれば、下手に出歩くことなんてしないはずだ。もし、余程の理由があって外に出たとすれば、遭難の可能性がある。山歩きには向かない格好で。
「教授」
獏良が視線を送ると、教授は頷いて、
「村長に相談してこよう。君たちは部屋で待機していてくれ」
足早に玄関へと消えていった。
「下手に動くとすれ違ってしまうかもしれないよ。部屋で彼女が帰ってくるのを待とう」
女はその場から動かず、カタカタと肩を震わせている。獏良はできるだけ優しく声をかけながら家の中まで誘導した。
村長の働きかけで集落の青年団が捜索を開始したと一報を受け、あとは行方不明の女の無事を祈るのみ。本人は帰ってこず、その後の報せはなく、無情にも太陽は落ちていった。
夕食の席で女はほとんど料理に箸をつけず、獏良に促されてやっと一口、二口と進めるだけだった。二人がどんな仲なのかは窺い知ることはできない。しかし、疲弊しきった顔を見ていれば、獏良の胸が傷んだ。
「姿だけでも見た人はいないんですか?」
動揺して口も利けない女の代わりに訊ねてみても、村長は首を横に振るだけ。
この集落で若い女が出歩けば、嫌でも目につくはずだ。それは今日一日歩き回った獏良にも分かる。情報が一つも出てこないとは奇妙だった。
何もできないまま夜が更け、朝を迎えても女は見つからない。
それどころか、もう一人の女も姿を消していた。
「探しに出ていってしまったのかねえ……」
教授は沈痛な面持ちで二階の窓から外を見遣る。調査は取り止めて、客室で待機することになった。獏良は自分に割り振られた部屋で待っていることができずに教授の部屋まで状況を聞きに訪れていた。依然として青年団の捜索は続き、今日は山奥まで範囲を広げるらしい。
獏良は教授の言葉を肯定も否定もできなかった。
一人で探しに出るなどあまりに向こう見ず。けれど、昨日の取り乱しようを思えば、ないとは言い切れない。荷物は部屋に二人分残されていた。
「何も手がかりがないだなんておかしいです」
「まるで神隠しだね」
思い返せば、この集落に入るときに妙な気配を感じたのだ。
「あの……ここに、不審者が迷い込んだなんてことは……ないですか……?」
獏良は躊躇いながらも疑問を口にした。一昨日だけではない。昨日は言動が不可解な青年がいたではないか。集落の人間を疑うような発言になりかねないので強くは主張できなかった。
「うーん……。ここは車を使わなきゃ来れないからね。徒歩でも来れなくもないが。この村のもの以外の自家用車なら目立つし。バスはここが運営しているようなものだから、不審者がいればすぐに情報が入るはずだ」
教授は腕を組み、考え込み始めた。山道で足を滑らせた可能性、獣に襲われた可能性。不審者の話題から遠退いていく。
その様子を見て、獏良は慎重に言葉を選びながら言った。
「えっと……ここに僕と同じくらいの年の人がいる……と思うんですけど……」
「ん?」
虚を衝かれたように教授は獏良を凝視した。
「君のような若者はここにはいないよ。一番若くて四十代のはずだ」
獏良は呆然と庭先で棒立ちをしていた。昨日、この庭で確かに青年を見かけたはずだ。教授の言葉は正しく、村長に確認まで取ってもらった。
この集落に若者はいない――。
高齢化により、青年団も名前ばかりで、実際はこの集落の若年層である四十から五十代の男性で構成されているらしい。
あの青年はそんな年には見えなかった。ますます謎が深まるばかり。
獏良が青年についていくら訊ねようとも、村長の頭が傾くだけで判然としない。
見かけた状況を説明するうちに、寝惚けていたのではと指摘されてしまう始末。
とうとう自信がなくなり、すごすごと引き下がってきてしまった。
あれは、幻だったのか夢だったのか。
獏良が呆けたままでいると、庭木の影から細長い姿をしたものがのそりと現れた。あの朝とまったく同じ光景。目が釘づけになり、足が動かない。怒りの形相が脳裏に甦る。
日の光に照らし出されたのは、同室の先輩だった。
「あ……」
男は獏良の動揺には気づかずに、不機嫌そうに肩を揺らして歩み寄る。
「あいつら見つかった?」
「いえ……まだです」
「どうせこんな山奥から逃げ出したんだろうに。……ったく女ってのは責任感がなくて困るよなあ?」
荷物も持たずに山の中へ逃げ出すとは考えづらい。獏良は吐き捨てられた言葉を受け止められずに曖昧な表情で男を見つめる。
男は苛々と握りしめた携帯をトントンと指で叩いた。
「どうせ単位目当てだったんだろ。教授に媚び売って。足りねえのは頭だけにしてくれってハナシだよ。女はいいよなあ。愛嬌を振り撒いてりゃいいんだから」
あまりにもな言い種に獏良は眉を潜める。二人も行方不明者が出ているとは思えない態度だ。
黙っていられず、つい非難めいた口調で言い返してしまった。
「先輩こそどうなんですか……?」
後輩に噛みつかれても、男は顔色一つ変えずにどこ吹く風。
「オレ?オレは単位なんて充分足りてるよ」
へらへらと締まりのない顔で笑い、
「あの教授、大手の推薦枠持ってるっていうからよ。だからこんなことでナシになって欲しくねえんだよなー」
「こんなこと?」
頭から冷水を被ったように、獏良から血の気が引いた。手の先まで冷えて感覚がない。深い憤りのあまり身体が小刻みに震える。目の前にいる無関心を気取る男のことを心底軽蔑した。
「事件に巻き込まれているかもしれないのに」
怒りをぶつけられても男の笑みは崩れない。
「で?お前もさぁ、いい子ちゃんぶってるけど、どうなんだよ。就職や成績で悩んでるってわけじゃないよな?熱心に教授を追いかけ回して」
「僕は……!」
「随分とヒマだねえ。苦労知らずのお坊っちゃん」
言葉も出なかった。言い返す言葉ならいくらでも思い浮かぶ。怒り、呆れ、驚き――すべての感情が口に蓋をした。何より、男の言葉を否定しきれない部分があったからだ。
「ハハッ」
獏良が反論しないことを見て取ると、男は鼻唄を口ずさみながらその場から去っていった。
獏良は部屋に戻らずに庭や廊下をうろうろと歩き回った。男と顔を合わせづらい。消えた二人のことが気になる。外に出るわけにはいかない。
失踪の件で出払っているのか、家人とも顔を合わすことはなかった。家中がらんとしていて人の気配がしない。獏良が古びた板廊下を軋ませる音だけが響き渡る。
屋敷をぐるりと半周して、ちょうど玄関の裏側に辿り着いた。玄関までの通路はなく、回り込む必要がある。表の階段にあたる部分は廊下を遮るように袋小路となっていた。階段裏の空いた空間は収納になっているらしい。小さな扉がついている。
気落ちしているせいで自然と獏良の視線は足元に向かいがちになる。方向転換をしようとして、床に異質なものを見つけた。劣化して大きく開いた板の隙間に光る何かが挟まっている。
獏良は跪いてそれを摘み上げようとした――が、逆に指で押し込んでしまった。今度は慎重に爪を使って目標物を隙間から抉り出す。
先が出たところで、ようやく持ち上げられた。淡い空色でラインストーンがついた――。
「――え?」
この集落には不釣り合いの――山歩きをすることを知らなかったのか――サンダルから露出した足にも確か同じものが――。
「な、なんで?」
すぐには何であるか分からなかった。混乱する脳が記憶と目の前にあるものを結びつけることを忘れてしまっていた。少し遅れて正しく認識をする。
「彼女」がつけていたものだ。
単なる落とし物としてはおかしい。わざわざこんなところで落とすのか。落としたとしても気づかないものか。それが失踪した彼女のものだなんて、意味があると思えてならない。
他にも何か落ちていないか。獏良は再び膝をついて床をくまなく調べた。床に顔を近づけて、どの隙間も見逃さないように。
そうして奇妙なことに気づいた。床板に不自然な切れ目がある。その切れ目をなぞると約五十センチ角の正方形になっていることに気づいた。
――開くのかな?
床下収納にしては、目印も取っ手もない。まるで目立たなくしているようだ。持ち上げようとしても引っかかる部分がほとんどない。しかし僅かだが確実に動く。
隙間に指は入らない。棒状のものがあれば抉じ開けられるか。
他人の家を引っ掻き回すなど、してはならないことのはず。頭では理解しているものの、どうしてもこの場所が気になる。
何度試しても蓋らしきものを持ち上げることはできなかった。
それでは、と今度は上から押してみる。あちらこちら探ってみて、ようやく少しではあるが一辺が持ち上がった。すかさず指をかけて正方形の床板を引き上げる。
床下から現れたのは、収納庫などではなかった。地下へ続く階段。獏良の額から一筋の汗が頬へと滑り落ちる。
ぴかぴかに磨かれているわけではないものの、ほとんど埃が見当たらない。頻繁に使用しているということだ。
――もしかしたら、この中に彼女がいるのかもしれない……。
獏良と同じように偶然見つけて入り込んで出られなくなってしまった可能性がある。
しかし――嫌な予感がする。胸の奥にどろりとした鉛が沈殿しているかのような拭い切れない何かが。
獏良は片足をそっと下ろした。古びた木製の階段は少し沈むものの、人一人の重さなら耐えてくれそうだ。慎重に一段ずつ下っていく。
下る度に光が届かなくなり、足元が見えなくなる。この地に来てから無用の長物となってしまった携帯を取り出し、懐中電灯代わりとする。
このまま下りていけば、まったくの暗闇になってしまうのだろうか。不安がよぎるが足は止めなかった。ほとんど視界が奪われている中でギシギシという音だけが鳴り響く。手すりも滑り止めもない階段を下るのは神経を使う。焦らず着実に一段一段。
獏良の心配は徒労に終わり、地下室にはぼんやりと灯りがついていた。物の輪郭が分かる程度ではあったが。
部屋自体はそう狭くはないようだ。奥までは光が届かず確認することはできない。少なくとも、ちょっとしたリビングルームほどの広さはある。腕を広げても壁に当たらない。棚や収納箱らしきものも置いてある。ただの倉庫なのだろうか。
足元に注意をしながら、奥へと進んだ。埃と湿気と――何かが混ざり合った臭いがする。長時間いるのは身体によくない気がした。
気休め程度に口元を押さえる。独特の臭いが鼻腔に残っていた。つんとする、何かが腐ったような……。
「………………っ!」
先にずた袋のようなものが横たわっているのが目に入った。恐る恐る携帯の光をそちらに向ける。喉奥からヒュッと音が出た。ずた袋に見えたものは膨れ上がった薄っぺらい布団で、中に包まっているのは痩せ細った女だった。
ミイラと見間違えるほどに皺が身体中に刻まれ、骨が浮いている。頭髪からも水分が抜けて痛みきり、どうやらほとんど白くなってしまっているようだ。
一瞬死体かと心臓が跳ね上がったが、弱々しい呼吸音が聞こえる。
具合が悪いのだろうか。だとすれば、なぜこんなところに寝かせておくのか。昔、病に侵された者や問題のある者をこうして離れや蔵に隔離していたという話を獏良は思い出した。
あんなに人の良さそうな顔をしていた主人たちが同じ人間にするとは思えない仕打ちだ。
――どうしよう……。
部外者が立ち入っていい問題ではない。しかし、見てしまった以上放ってもおけない。
獏良が病んだ女の前で立ち竦んでいると、
「出ていけと言ったろ」
突然、背後で男の声がした。
あまりのことに獏良の口から悲鳴が飛び出した。よろめいて前へ倒れかかる。近寄られるまで足音はしなかった。音もなく階段を下りてきたというのか。
「えっ……あっ……ぼ、僕は……その……」
言葉を詰まらせる獏良の背後に立っていたのは、昨朝に見かけた青年だった。
「君は……」
「深入りしやがって」
あのときと違い、刺々しさはなくなり、呆れた様子で腕を組んでいる。服装は変わらず着物のままだ。
「どうしてここに入った?」
「え?えっと、もしかしたら、連れが入り込んでしまったんじゃないかと思って……」
「……やっぱり勘がいいんだな」
言葉を交わしてみると、青年は随分と落ち着いていて不審者とは思えない雰囲気だった。
「あの、君は一体……。この村の人……じゃないんだよね?」
「違ぇな」
獏良の問いに対する回答は、取りつく島もなくぴしゃりと言い放たれる。
「……まあ、近くに住んでるモンだ」
この集落の他に居住地があっただろうか。困惑する獏良を余所に、青年は言葉を続けた。
「お前もこうなりたくなかったら、さっさとこの村から出ていけ。早くしねえと奴らに食われるぞ」
男が目覚めたのは蔵の中だった。
当人はそれを知る由もなく、目の前にはただの暗闇が広がっている。
視界が奪われているのだと気づくまで少々時間を要した。
「ん、ぐっ?!」
声を出そうとするも叶わない。それどころか、四肢の自由すら思うままにならず、床――感触でそう判断した――で不恰好に身体を芋虫のように揺らすのみ。
焦りと混乱の真っ只中で思い出せたのは、こうなる直前の光景。
することもなく部屋で寛いでいたところ、呼びかけられて開けた戸の向こうに、この家の息子をはじめとする数人の男が立っていた。その後は鈍い痛みが腹部を襲い――。
「ぐぅうううううッ!」
怒りで毛穴から血が噴き出しそうだった。あいつらなんのつもりだ。なんでこんな目に。
手足を拘束するだけでなく、目隠しに猿轡という念の入れよう。ここまでされる理由は一つも思い当たらない。理不尽そのもの。
男は虚栄心の塊だった。自分の弱みを見せることを良しとせず、見下されることを極端に嫌う。
就職活動や大学の人間関係が上手くいかなくても、他人を愚か者と決めつけることで自己正当化して心の安定を図っていた。だから、こんな仕打ちは屈辱そのもので、絶対に許せなかった。
縛られた身体で力任せに転がり、跳ね、怒りを露にした。物に当たっても構わない。この状態から脱することだけしか頭になかった。ふざけやがって。出てこい。
「ふぐぅうううう」
そのせいで身体に何かが降ってこようとも動くのを止めなかった。蔵には使わなくなった家具や先祖から伝わる古い道具がしまいっぱなしになっている。それらに身体のあちらこちらをぶつけた。
くぐもった呻き声しか出せない苛立ちがさらに彼の後押しをする。足に何かが巻きついても、乱暴に引き千切ろうとした。
一度目は果たせず、さらに力を入れて二度、三度と足を引く。何度か試し、ある瞬間に身体が自由になった。
ブチンッ――。