ばかうけ

翌日、バクラは登校中に遊戯が校舎に入っていくのを見かけた。全力疾走しても追いかけられる距離ではないので接触を諦め、鞄を置きに教室へと向かう。
朝礼まで十分もない時刻。遊戯のいる隣の教室に行くのには充分な時間だったが、きっと獏良が邪魔をしてくる。そうなったら、すぐに朝礼の時間になってしまう。朝は遊戯に話しかけるのは無理だとバクラは判断した。今日に至るまでの妨害で、すっかり諦め癖がついていた。
教室に入り、一番後ろにある自分の席に鞄を置く。椅子に腰を下ろし、つまらなさそうに窓の外を見る。
律儀に学校へ通うことになるとは思わなかった。それほどまでにあのΩが欲しい。目の覚めるような香りの……。遊戯はバクラを見るとおどおどしているが、まだ噛まれた様子がないから、つけ入る隙は残されている。
バクラが思考に明け暮れているうちに、教室の席がクラスメイトで少しずつ埋まっていく。しかし、斜め前にある獏良の姿はまだない。いつもだったらバクラより早く登校しているはずだ。女子生徒たちも獏良のことが気になるのか、ちらちらと空席に視線を送り、何事か話し合っている。

予鈴が鳴る。まだ来ない。バクラは風景を見ることをやめて獏良の席を注視した。
——おい、まさか……。
担任の教師が前側の引き戸を開けて入ってくる。生徒たちはどたばたと慌ただしく席に着く。立っている者はいなくなり、縦横綺麗に揃うが、獏良の席だけはぽっかりと空席になっている。
「せんせぇ、獏良くんはどうしたんですかぁ?」
「獏良は遅くなるそうだ。連絡が入ってるぞ」
ファンの一人と担任のやり取りを見て、バクラは愕然とした。わざわざ邪魔を警戒したのに無駄だった。行儀正しく教室にいる必要などなかったのだ。
——遊戯のところへ行くべきだったな……。
バクラから肩の力が抜け、後の時間は担任の言葉を右から左で過ごした。

獏良が遅れてやってきたのは一時限目の中頃。獏良が授業中に息を乱しながら後ろの戸を開けて教室に入ってきた。
「すみません。遅れました」
国語の教師は白チョークを黒板の受け皿に置き、教卓に手をつく。
「話は聞いてるぞ。大丈夫か?」
「はい、問題ないです」
獏良は席で鞄から教科書やノートを素早く出しながら頷く。その回答に納得した教師は授業を再開した。
生徒が全員黒板に注目する中で、バクラは後ろから獏良に鋭い視線を送っていた。

休み時間になると女子生徒たちが獏良の席に集まり、それぞれ心配の声をかけていた。獏良は彼女たちの勢いを手のひらで制し、しきりに大丈夫だと言いながら困った笑いを浮かべている。
「——おい」
背後からつっけんどんに言葉を投げかけたのはバクラだ。クラスに馴染もうとしない転校生から話しかけるのは珍しい。それもクラス一の人気者に対して。
近くにいる生徒たちが静まり、何事かと視線を向ける。女子たちはバクラの迫力に恐れをなして一歩引く。
「なに?」
珍しい行動に獏良は身構えつつも言葉を返す。
バクラはポケットに手を突っ込み、つかつかと早足で近寄る。獏良が制止する前に顎を乱暴に掴んで引き寄せた。
キャッと上がる女子たちの悲鳴。離れた場所にいる生徒たちも何事かと獏良たちを見る。場に緊張感が数秒走り、バクラが鋭い視線で獏良を射貫いた。
「顔色悪いぞ。倒れる前に保健室行きな」
それだけ言うと乱暴に手を離し、自分の席へと戻っていく。周囲の女子は呆然とした後、我先にと獏良を労り始めた。

次の授業に獏良の姿はなかった。バクラは気にする様子もなく、いつものようにつまらなさそうに窓の外を見ていた。
昼休みになり、獏良の不在を好機と捉え、バクラは遊戯のクラスを訪れた。しかし、友人の本田や城之内がしっかりとガードしていて手出しができなかった。彼らによると、獏良が保健室に行く前に遊戯のことを頼んでいたらしい。
バクラは忌々しげに舌打ちをする。いても、いなくても、邪魔をするではないか。
その日、獏良は保健室から早退し、教室に戻ってはこなかった。
次の日になると普段通りに登校し、教室を抜け出そうとするバクラの首根っこを引っ捕まえて説教するまで元気になっていた。



二ヶ月経ってもバクラは遊戯に迫ることができなかった。未だに友人未満という体たらく。つがい候補への求愛が思うようにいかないことは、バクラを大いに腹立たせた。
おまけに全員分の教材を運んでくるように教員に名指しされ、その日はさらに機嫌を悪くしていた。大人しく従うバクラではないので、このまま雲隠れするつもりだ。
休み時間中に人気のない廊下を選んで進む。感情を隠さずにムスッとしたまま歩いていると——。
「な……に……?」
初めて童実野高校を訪れたときに感じた香りが漂ってきた。微量なのに脳みそを揺らすほどの影響力。ふらつく足で引き寄せられるようにして香りの元を辿る。
人がいるはずのない空き教室。特別な授業以外では使われない部屋に、たった一人の姿があった。
床に座り込み、苦しげに胸を押さえている少年。もう片方の手は、何かを探るように床を這っている。よく知っている人物だ。一体全体どうして教室から離れた場所に一人でいるのか。次の授業を受ける準備をする時間のはずなのに。理想のαと名高い獏良だった。
バクラは不審に思って教室に一歩足を踏み入れた。途端に、ぶわっと感じる香りの渦。
「ハッ……………?」
濃厚なフェロモンの香りが教室に充満している。バクラの理性が一遍に飛びそうになる。心拍数が上がり、視線が揺らぐ。
ぼやける視界の中で、バクラに気づいた獏良は顔を歪めながら何事か口にしていた。
「こないで……。ぅう……。やだ……。こないでこないで。やめて……」
目に恐怖の色を浮かばせ、床にへたり込んだまま後ろに下がる。身体が思うように動かない様子。一種のパニック状態なのか、その挙動は尋常ではない。
対峙するバクラも香りで思考が鈍くなった状態で混乱をしていた。
この香りはΩの。しかし、獏良はαのはず。チョーカーは?Ωのはずがない。なぜこの匂いが……。追い求めたのは……。
思考の堂々巡りに陥っていると、湿った声がバクラを現実に呼び戻した。
獏良がぼたぼたと涙を流している。恐怖の対象はバクラ。はっきりとした拒絶を示していた。
噎せ返るような香りの中、戸惑い、狼狽し、二人とも次の行動に移せず、膠着状態だった。そんな空気を破ったのは、廊下から聞こえた新たな声。
「具合悪いのか?!」
偶然通りかかった清掃員が獏良の様子に気づき、慌てふためいて駆け寄ろうとした。心配という純粋な感情から来る行動だったが、部屋には強烈なΩのフェロモンが漂っている。清掃員の第二性は不明。つがいの有無も勿論分からない。どんなことになるのか、最悪のケースがバクラの頭に浮かんだ。確かな情報もない中でとった行動は——。
清掃員が教室に入ろうとしたところで、
「来るなッ!!」
バクラは鋭く叫ぶと唸り声を上げ始めた。獏良を背に庇い、牙を剥き出しにして威嚇する。
「保険医を呼んで来い!Ωのヒートだッ!」
理性と本能の狭間で揺れ動きながら、動揺している清掃員を怒鳴りつける。バクラの体温が急上昇している。Ωのフェロモンをまともに浴びたαは絶対といえるほどラットを起こす。
バクラはフーフーと荒い息を吐いて己の衝動を抑える。少しでも気を緩めれば意識が飛びそうだ。汗が額にびっしりと浮かんでいた。
——Ω。オレの。守る。触るな。守る。オレの。耐えろ。守る。
Ωのうなじに噛みつきたくて牙が疼く。涎が口から溢れ出そうになる。二つの相対する欲求がぶつかり合い、視界が揺らぐ。
「ぐ……っ」
自分の手を強く噛んで自我を保とうとする。痛みが正常な思考を呼び戻した。
背後にいる獏良を見ると、今にも倒れそうな様子だ。Ωのヒートと呼ばれる発情は、熱に浮かされるようで耐え難いという。
だから、抑制剤や発情休暇がある。獏良の近くにはピルケースが落ちているが、医者でもないバクラが適切な処置をできるわけがない。
保健室には緊急用に発情抑制剤を常備しているのが一般的だと聞いたことがある。それを使えば、獏良の症状が改善されるかもしれない。
こんなにも苦しそうなのだから、早くなんとかしてやりたい——。
フェロモンが充満した部屋の中で、バクラの脳裏に「つがい相手を守る」という意識が埋め尽くされていった。

*****

——僕はαが嫌いだ。

この国の子どもたちは第二次成長期を迎える年頃になると第二性の検査を受ける。初めての発情はちょうどその頃経験することになる。
生まれてすぐに行わないのは、血液型などと同じく後天的に変化をする可能性があるからで、早すぎる検査は意味がないという研究結果が出たからだ。これにより検査の誤判定は格段に減った。

獏良はαの父とαの母の間に生まれた。当然、周囲も獏良自身もαであると検査前から思い込んでいた。
血液検査を経て通知された結果はΩ。獏良家にはΩの血が混じっていたらしい。隔世遺伝というやつだ。
両親は大いに嘆いた。Ωに対しての冷遇を知っていたからだ。これから息子が苦労するであろうことは明白だった。
獏良はΩに対して差別意識があったわけではない。それは、今の第二性に関する平等教育の賜物だった。
両親の実子であることは確かなのに、それを否定されたような気にはなった。家族の中で自分だけが異質な存在であるという事実は、幼い獏良をとても傷つけた。
学校の保健室に呼ばれ、Ωだけに配られる性教育冊子を渡されたときもすぐには読めなかった。

両親は心を決めて獏良を手厚くフォローした。Ωについて調べ、少しでも息子が過ごし易いように副作用が少ない高価な薬や特別製のチョーカーを買い与えた。
獏良の初めてのチョーカーは、とあるブランドの頑丈かつ洒落たデザインのものだった。両親とデパートに一緒に買いに行き、選べる付属品は星にした。中央に金色の飾りがついているものだ。
帰りにレストランでお子様ランチを食べ、その日はとても幸せだった。いつも忙しい父親も一緒に来てくれたのが、何より嬉しかったのだ。
両親は獏良のこれからの人生を案じ、とても気を使っていたのだろう。
そのときは子どもらしく、両親の優しさを無邪気に享受していた。

獏良を見る周りの目が変わったのは、その日からだ。
チョーカーをつけていれば、人の視線を集めた。知らない人まで「Ωの子ども」として獏良を見てくる。そこにどんな感情が込められているかは分からない。しかし、奇異の目は、獏良を充分に怯えさせた。
今まで周囲の目など気にしてこなかった。第二性に対して差別問題があると、学校では習った。しかし、それは教科書の中での話。
ただΩであるだけで、世界が一変してしまった。突然、社会的弱者となったことを嫌というほど思い知らされたのだ。
悲しいことに、母親譲りの美しい顔立ちは、さらに獏良を悪目立ちさせた。元々、歩いていると羨望の眼差しを送られることはあった。それにΩという個性が付属しただけで、集めなくていい注目まで集めるようになってしまった。
発情期が始まったばかりのΩは心身共に不安定だ。発情の周期も定まらない。加えて獏良はフェロモンが過剰分泌される体質であったらしい。

ある夏の夕方、獏良は委員会の作業で帰りが遅くなった。人通りの少ない小道を歩いていたところ、後ろから男に襲われた。
男は獏良を自宅の庭に引きずり込み、血走った目で何事か喚いていた。聞き取れた情報からすると、獏良から強いフェロモンが漏れ出していたらしい。勿論、抑制剤は飲んでいた。
αの男の言い分は、Ωのせいで迷惑をしているという勝手なものだった。
「お前のせいだ」「誘った」「Ωの分際で」「撒き散らしやがって」
怯えて硬直した獏良に、男は飢えた獣のように涎を垂らしながら噛みついた。うなじはチョーカーで覆われている。αの鋭い牙を通さなかった。
フェロモンに当てられたαは、一心不乱に獏良のチョーカーに牙を立てた。不幸中の幸いにもチョーカーは頑丈な特別製。人間ごときの咬合力ではびくともしない。それでも理性を失ったαは何度も何度も噛みつく。
通行人が異変に気づいて通報し、警察官に助け出されるまでの三十分間、獏良はチョーカー越しにαが持つ鋭い牙を当てられ続けた。
恐怖というには手緩い果てしない地獄。たった三十分。けれども、獏良にとっては永遠に感じた時間だった。早く終わって、と念じるしかなかった。

救いだったのは、この一件を対応した警察官がとても親身になり、獏良を傷つけないように最大限の優しさをもって接してくれたことだ。
両親は勿論、医者、カウンセラー、教師——周りの関係者すべてが未成年の被害者に対して真摯に動いた。だから、獏良は二次被害を受けることなく、少ない時間でまた学校に通えるようになった。αの男はすぐに捕まり、また襲われる心配もない。
けれど、αに対する不信感は拭えない。身体は男に引き摺られた際にできた擦り傷程度で済んだが、目に見えない傷が心についたのだ。



不幸は続く。中学校へ進むタイミングで引っ越し、心機一転することになった。このことについても、両親の強い配慮が窺える。忌まわしい記憶が残る町を離れ、新しく生活を始められると、獏良は入学式を楽しみにしていた。
第二次成長期を迎え、獏良は身長が伸び、子どもらしいふっくらとした輪郭がすっきりとした線になり、元々整った顔立ちは目鼻立ちがくっきりとし、そこにいるだけで空気が変わるような美しさになった。
つまり、人の目をさらに引くようになってしまったのだ。歩いているだけで注目をされる。顔の次に買い換えたばかりの真新しいチョーカーに視線が注がれる。
そして、すぐに噂が立った。
『事件に巻き込まれたΩがいる』
『巻き込まれたのではなく、引き起こしたんじゃないか?』
『あの見た目ならあり得る』
また、引っ越さなければならなくなった。
次の町でも似たようなことがあり、引っ越した。その次も、そのまた次も……。

両親は気にしなくていいと言ったが、憔悴しているのは明らかだった。これ以上迷惑はかけられない。
獏良は独り暮らしをすると両親に強く申し出た。当然、危険だ心配だと反対されたが、一歩も引かなかった。
紆余曲折を経て、毎日連絡することや保健所の見守りを受け行れることなどを約束し、何とか独り暮らしに漕ぎ着けた。
そうこうしているうちに、発情期の間隔が成長と共に安定してきた。身体に合う薬も見つかった。
きちんと発情抑制剤を服用していれば、フェロモンが漏れ出す危険はない。
獏良は引っ越し先でチョーカーを外した。それは危険な行為だったが、獏良にとってのチョーカーは注目を集める道具でしかなかったからだ。
うなじを晒すと、さすがに落ち着かない気分になったので、隠れるように髪を伸ばした。
高校生活が始まり、何事もないという顔をすれば、Ωだとは思われなかった。むしろ、獏良の美貌に沸き立つ女子たちが勝手にαだと噂をしてくれた。
誤解はそのままに、獏良は肯定も否定もさずに微笑む。それだけで、αだと確信された。
嬉しいことに、童実野高校ではかけがえのない友人ができた。今まで引っ越しばかりで親しい友など作れなかったから余計にだ。
獏良と同じΩの遊戯。彼もまたΩという体質に生きづらさを感じていた。
一年生時に同じクラスになり、獏良はこっそりと自分がΩだと打ち明けた。困ったときはお互いに力になれると思ったからだ。
チョーカーなしの獏良に驚きつつも、聡い遊戯はすぐに事情を察し、二人は親友となった。
片方が具合が悪ければフォローをするし、人気のない場所を教えあったりもする。獏良にとっては久々の安心できる人間関係ができた。
ほどなくして、遊戯は運命のαに出会った。アテムという優れた家系の長男だ。遊戯は他に誰もいない屋上で顔を赤くして、「大切な人ができた」と言った。「獏良くんに紹介したい」とも。
獏良はアテムと会ってみて、すぐに彼とも仲良くなった。家柄がよいからだろうか。アテムは他のαとは違った。
簡単にフェロモンには屈しない。Ωに対しても態度は変わらない。Ωの体質を理解し、適切な距離を保ってくれる。アテムが遊戯を大切にしているとは、獏良にもすぐに分かった。
両想いでも遊戯の意思を尊重して高校に在籍中はつがいにならないのだという。つがい関係は一度結んでしまったら解消できない。アテムは遊戯によく考えて決めて欲しいそうだ。
獏良はこの話を聞き、アテムは信頼できるαだと判断した。彼は一握りの選ばれたα。だから、遊戯とのことも心から祝福できる。
気兼ねのない友人がまた増え、獏良の高校生活は楽しいものになった。
さらに遊戯との繋がりで事情を知る城之内や本田とも仲良くなった。
学校生活が楽しい。過去を忘れたわけではない。第二性を偽る心苦しさはある。それでも、また心から笑えるようになったのだ。
遊戯たちの幸せを祝福し、彼らの関係を守ることで、過去の獏良も救われるようだった。獏良が望むことは、もう不幸なΩを作らないこと。理想の関係である二人と接することは、獏良に充足感を与えた。
そうして、童実野高校での新しい生活にも次第に慣れていった。

それなのに——。
二ヶ月ほど前から体調に異変があった。再び発情期の周期が乱れるようになってしまった。すぐ病院に通って検査をし、強い頓服剤を処方してもらった。検査の結果は異常なし。医者はこればかりは体質だから、と難しい顔をしていた。
薬を服用することが多くなった。緊急時に使用する抑制剤はピルケースに入れ、いつも持ち運べるようにした。
急な発情は抑えられるようにはなったが、今度は頓服剤の副作用で苦しむことになった。効き目がよくても、身体に合わなかったのだ。
獏良は何度か医者に相談し、少し弱いクスリに切り換えた。体調不良は起こしにくくなったが、突発性の発情を起こす危険はまた高くなった。
精神の限界だった。笑顔の裏で泣き叫んでいた。発情をすると自分で自分が抑えられなくなる。身体がまるで他人のものになったかのように言うことを聞かない。思考もおかしくなる。
αから身を守らなくてはならない。βも強いフェロモンには反応するから無害ではない。周りのほとんどを警戒しなくてはならない。卒業までは、あと一年もある。無事に卒業したとして、大学生や社会人になっても同じことだ。
これから死ぬまでこの苦しみに耐えなくてはいけないのか。助けて。

——僕はαが嫌いだ。でも、もっと嫌いなのは、思い通りにならないΩの僕自身。

*****

目を開けた獏良の視界に飛び込んできたのは、薄クリーム色のカーテン、石膏を模した質感の天井。一瞬、頭の中が混乱する。上半身を起こし、自分の身に起こったことを確認しようとした。
「…………保健室?」
獏良が寝かされていたのは、清潔な真っ白のシーツが敷かれたベッド。微かに消毒液の匂いがする。さきほどまで空き教室にいたはず……。
カーテンが勢いよくシャッと開けられ、白衣を着た眼鏡の若い保険医が姿を現した。
「起きたのね。まず名前を確認するわね。えっと……二年の獏良了くんね?」
獏良が頷くと、保険医は身分証明書を提示する。
「入学時に説明は受けていると思うけど、私はパートナーがいるαだから、あなたが心配することはないわ。あなたのこともΩとして把握してる」
獏良はまだ少しぼんやりとした頭で保健室での処置を聞いた。獏良のピルケースは見つかったものの、本人の意識がなかったため使用の判断ができず、やむを得ず保健室に常備してある緊急用の発情抑制剤を使ったという。
「すぐにかかりつけの病院で診てもらわなきゃいけないんだけど……。あなた独り暮らしよね?」
獏良が離れた場所にいる両親について説明すると、保険医は頬に手を当てて困った顔をした。
「それじゃ少し時間かかるわね。どうしようかな……」
「あの…………」
獏良は目が覚めてからずっと疑問に思っていたことを口にした。どうやって、あの空き教室からここへやって来たのだろう。気を失う前の記憶は曖昧だ。気分が悪くなって、近くの無人教室に駆け込み、ピルケースを出そうとして……それから??
「ああ。あなたを助けてくれた子がいるのよ。ええっと……、名前を聞きそびれたわ……。あなたと同じ白い髪のαの子よ。お友だちかしら?」
「えっ?!」
獏良は飛び跳ねんばかりに驚いて瞬きをした。思い当たる人物は知る限り一人しかいない。保険医の言葉が引き金となって、あの教室でバクラの姿を見たことを思い出した。それで、錯乱したのだ。発情中にαであるバクラに見つかったことで、過去の記憶が呼び起こされて恐怖で頭が埋め尽くされた。
「彼、凄いわね。私もαだから分かるんだけど、ラットを起こしかけていたのに冷静だったの。私がパートナーのいるαと確認するまで近づけさせてもらえなかったわ。あなたを守ろうと必死だったのね。それにしても、困ったわ……」
獏良は呆然と思案する保険医を見ていた。
——守る?あいつが??
獏良にとってαは恐怖の対象でしかない。アテムのような存在は例外中の例外。それなのに、獏良に噛みつこうともせず、それどころか助けてくれたなど、にわかには信じられない。けれど——。
意識が途切れそうな中で、頼もしい背中を見た気がする。腕を広げて獏良を守ろうとする背中を。それを見て安心して、力が抜けたのだ。その姿は夢や幻ではなかったらしい

担任と保険医の話し合いの末、獏良はタクシーを呼んでもらい、病院へと直行した。主治医に診てもらい、「問題はなさそうだが、しばらく安静に」と指示を受けた。
自宅へ帰ると、学校から連絡を受けた母親から携帯に連絡があった。酷く慌てた様子で状態を訊かれ、「問題ないよ」と答えても、家に向かっている最中だと言われた。
「大丈夫だよ。気にしないで」と言っても、母親は引かずに「大丈夫じゃないでしょう」と獏良を一喝した。
それから少しして母親はやって来た。掃除や食事など、家事の一切を任せることになった。
獏良は大人しくベッドに横になる。「母さんに怒られたの、久々だな」としみじみ思いながら。



翌日、学校は大事を取って欠席をした。母親はすべての家事を終わらせ、獏良の体調を確認すると、複数のおかずを作り置きにし、仕事をするために帰っていった。
一日半ゆっくり休めたことで獏良にやっと余裕が生まれ、今後のことを考えた。
もしかしたら、一昨日の騒ぎでΩだと学校で話が広まっているかもしれない。
「また転校かあ……」
もう慣れたとはいえ、童実野町では友だちができた。できれば、ずっとここにいたい。
引っ越しをする対応だけではいけないのかもしれない。そろそろ別の方法を考える必要がありそうだ。
明日の登校を考えると、憂鬱な気分になった。学校をやめるにしても、バクラに助けてもらった礼だけは言いたい。何か菓子でも用意をするか。
獏良は気分転換も兼ねて外へ買い物へ行くことにした。

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なるべく原作の要素を生かすようにしました。
次でラストです。
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