屋敷の主人に通された部屋は、ホテルの一室かと思うほど設備が整っていた。
部屋のユニットバスも備品がないことを除けば申し分ない。
獏良はシャワーで濡れた髪をタオルでがしがしと拭きながらベッドに腰掛けた。
バッグの中身を次々と取り出して並べていく。
雨に降られていたせいで内側まで湿っていた。
荷物は必要最低限のものしかない。
服だって洗って着回せば良いのだから数着だけだ。
その中から濡れてしまったものを除け、バッグと一緒に部屋の開いたスペースを利用して干した。
雨の洗礼を免れた荷物は、まとめて大きな肘掛け椅子に置く。
これだけ使っても、部屋にはまだ充分すぎるほどのゆとりがある。
「こんなに良くしてもらって良いのかな」
スプリングのきいたベッドに身体を沈める。
「そんなの、決まってるじゃねぇか」
ベッドの脇に獏良によく似た姿の青年が現れて獏良を見下ろした。
獏良は慣れた様子で目線だけをそちらへ向ける。
「あれは相当変わった嗜好の持ち主だぜ」
下卑た笑みを浮かべながらベッドに腰掛けた。
ベッドは少しも軋まなかった。
「失礼だよ、バクラ。確かに親切すぎるかなとは思ったけど」
この屋敷の主人は世間で知られている割には若く気さくな印象があった。
困っている見ず知らずの他人をためらうことなく家に上げたので、獏良は感心したのだ。
そんな人を悪くは言いたくない。
「じゃあ、人嫌いで一人でここにいるって言っていたのに、お前にあれこれ世話を焼くのはなんでだろうなぁ」
反論する獏良に楽しそうに口を開いた。
「う……確かに」
狼狽する様子を見て、バクラは満足げに目を細める。
獏良をからかうのが楽しみの一つなのだ。
動揺する姿を見てほくそ笑むことに至上の喜びを感じるらしい。
悪趣味。
獏良は毎回そう呟く。
「でも、良い人なんじゃない?『人嫌い』なんて謙遜して。でなかったら、大勢の人がついてこないよ」
「仕事上の付き合いくらい割り切ってやるぞ」
あっさりと切り返され、悔しそうに獏良は口を噤んだ。
「偏屈野郎が初対面の人間に、馴れ馴れしくするのがそもそも臭い」
音もなく横になっている獏良の上に跨り、見下ろす。
「晩飯に変なモンを入れられるかもしれねぇな」
本当に身体を拘束されたわけではないので逃れることは出来たが、あえてその場を動かない。
落ち着いた表情でバクラを見上げる。
「変なゲームのやりすぎじゃない。それにもし、そんなことをされたとして、あの人に好き勝手されている僕をお前は助けてくれないんだ?」
「あのなぁ。身体がどうにかなってたら、オレ様も何も出来ないんだぜ」
挑むような視線に今度はバクラが狼狽える番だった。
「僕が変なことをされても良いの?」
「そんなこと言ってねえ」
バクラは獏良の顔を撫でるように手を添え、唇を額から頬、頬から唇へ移していった。
その間、獏良は黙って口付けをただ受け入れていた。
それが身体を持たない二人の暗黙のルールだ。
触れるだけ程度に重ねられた唇が離れると、
「そうやって、すぐ誤魔化す」
軽く睨んで囁いた。
「妬いてるの?」
「誰が」
また軽く、唇を啄む。
至近距離で見つめ合い、身体を合わせる。
そのままベッドの中に沈んでいくような心地良さにうっとりと身を委ねた。
聞こえるのは雨音ではなく、一つの心音と二人の息遣い。
二つが一つに溶け合って、混ざり合う。
何処までも落ちていきたい。
そう思ったが、あいにく獏良の理性はまだしっかりと機能していた。
「危ない危ない。まったりしてる時間なんてないよ」
バクラを押し退けて、ベッドから這い出る。
名残惜しくその姿を見ていたが、
「ヘマすんなよ」
前髪をかき上げて、バクラは姿を消した。
のんびりとベッドの上でじゃれ合いに来たのではない。
気を引き締めて、獏良は部屋の戸を開けた。
赤い絨毯が敷かれた廊下が延々と続いている。
薄暗いランプに灯され、誰の気配もしないそこは、ただただ不気味だった。
獏良はゆっくりと一歩踏み出す。
不思議なくらい無音の世界だった。
この館には獏良と主人の二人しかいないはずだから、当然といえば当然だ。
何も音がしないということは安全なのだろうが、余計な不安を掻き立てる。
静かすぎるというのも、問題だった。
廊下の一方には、どんな部屋なのかも分からない無数の扉、もう一方側には骨董品が並んでいる。
「いきなり何かが部屋から飛び出してくるかもしんねえなぁ」
「ち……ちょっと驚かさないでよ……」
ホラー映画などは好んで見るが、それと自分の身に降りかかるのとは別物だ。
バクラの一言に、ぞくりと背筋が凍った。
「ヒャハハ」
無遠慮な嘲笑に、奥に引っ込んでないで出て来たらと口を尖らせた。
「しかし、値打ちもんがごろごろしてんな。あいつだったら、一つや二つ盗っても分からないんじゃねえ?」
「ダメだよ」
軽口を叩きながら、獏良は目的のものの気配を探る。
惹かれるように、足が自然と前へ進む。
以前もよくこんなことがあったなと、獏良は思った。
自分の意思とは関係なく動かされていた。
その間の記憶はほとんどない。
今は自分の力で歩いている。
意識を持って、しっかり前を見つめて進んでいる。
研ぎ澄まされた神経が、獏良を導いた。
「一階だ」
進んだ先には、階下へと続く階段がぱっくりと大きな口を開けていた。
一段一段慎重にゆっくりと降りていく。
行くべき場所まで屋敷の主人に会う可能性は少ないと、獏良は考えている。
万が一、見つかってしまったとしても、言い訳の一つや二つは用意してある。
苦しい逃げ口上になってしまうかもしれないが、実際の人間の行動なんて、ずっと気紛れめいているのだから不可能ではない。
それでも、館の主人の信用を落とすことは望ましくない。
出来ることなら避けたかった。
獏良の危惧は杞憂に終わり、主人と会わずに一階の隅の部屋の前に辿り着いた。
冷たく無機質なドアを指の先で撫でる。
「ん、ここに間違いない」
ドアノブを軽く動かすが、ドアはぴったりと閉じたままだった。
「やっぱり鍵がかかってるね。どう?」
「相当古い型だな。こんなの、オレ様にかかれば一発だぜ」
獏良はバクラの言葉に、丁寧に二、三度頷いた後、
「ごめん。道具、持って来てない」
心地良いくらいにすっぱりと言いのけた。
「おい、コラ」
「いや、ボケてるんじゃなくて……。いきなり事を運ぶのも……様子見ってことで」
あまり長居をしていると、館の主人が獏良の部屋へ訪れて不在ということに気付くかもしれない。
寝静まった後に、行動した方が得策だと、獏良は伝えた。
「お前がそう言うなら、それでも良いけどよ」
渋々といった調子でバクラが頷く。
「ありがと」
にっこりと獏良は微笑んで返した。
どれぐらいの間を置いたら良いのだろうか。
私は何度も時計と睨み合った。
食事の支度なんて、暖めて盛るだけだからすぐ終わる。
いつでも彼を呼びに行けたのだ。
しかし、彼には落ち着ける時間が必要だと思い留まっていた。
心から相手を気遣うのは本当に久方振りで、まだ私にもそんな人の優しさが残っていたのかと思うと感慨深い。
ああ、あんまり遅くなっても、食いっぱぐれてしまうな。
それでは元も子もない。
充分に時間は置いた。
私は少し緊張しながら、彼の部屋に向かうことにする。
扉の前に立ち、あまりの静けさに、私以外にもう一人いることが信じられなくなる。
古い屋敷とはいえ、防音設備はしっかりとしているから、中の様子を知ることが出来ないのは当たり前だ。
それでも、彼の儚い雰囲気から、掻き消えてしまっても不思議ではないと思ってしまう。
このご時世に、狐だの狸だのが人を化かすわけでもあるまいし。
一呼吸置いて、戸を叩く。
すぐに戸が開き、白い顔が中から覗いた。
「そろそろ食事の時間かと思ったんでね。大丈夫かい?」
「はい、頂きます。こんな格好で、すみません」
恥ずかしそうに後ろ頭を掻く。
彼はシャツにジャージというラフな格好に着替えていた。
生乾きの乱れた白髪が艶めかしくて、くらくらと眩暈を感じた。
それを悟られないように軽く頭を振って正気を取り戻すと、彼を食堂へ促した。
冷凍食品しか出せない自分が恨めしい。
彼は微笑んで、ご相伴に預かるだけでも有り難いことなんですからと言ってくれた。
図体ばかり大きい屋敷に粗末な食事なんて、どれほど惨めなものか。
こんなことだったら、礼儀作法や経済学よりも料理を学ぶべきだった。
男が家事をする必要はないと、一蹴した古い考えの父を恨む。
溶かしただけのスープと解凍したピラフ、それに千切って適当に盛り付けたサラダなんて味気ない。
私が気にかけたほど、彼は食事に注意が向いていないようだった。
それよりも、この広い空間に気を取られ、落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
確かに、私が「食堂」と呼ぶだけあって、一度に何人も食事が出来るほど広い。
テーブルの端と端について、少々大きな声で話すという馬鹿げたことをしなければならない。
「こんなところじゃ、気が散ってしかたないだろう」
「あ、え……いえ、確かに僕の家と比べたら、格段に広いですが」
食事をつつきながら、ぼそぼそと呟いた。
気後れさせてしまったかな。
「ここがおかしいだけさ。私の自宅はそれほどじゃないんだよ。マンションに一人暮らしだ」
「へえ……。僕もですよ」
「マンションに?一人で?大変じゃないかい?」
彼の暮らしている町はなかなかの都会だ。 借りるにしても、値が張るに決まっている。 下宿や安アパートに一人暮らしなら分かるが、学生がマンションに一人暮らし……私が言うのも変だが、ひょっとしたら、彼はお坊ちゃんなのだろうか。
彼は私の疑問を察したらしく、慌てて両手を振った。
「両親が仕事で家に落ち着かないので、結果的に一人暮らしになってしまうんですよ」
私は彼の説明に頷く。
これ以上、他人の家庭の事情に口を挟むような野暮なことはしない。
彼は家事を一人でこなしているのだろう。
ならば、なおさら彼に面目が立たない。
本来、彼はこんな食事をしなくて済むのだ。
一人でまともに飯も作れないほど、生活力のない自分が情けない。
何か、彼にしてやれること……。
黙々と飯を平らげていくなか、いつの間にか真剣にそんなことを考えていた。
『大学では考古学を……』
そうだ。
彼は骨董品に興味があると言ってたじゃないか。
確か、祖父のコレクションが端の部屋にあったはずだ。
私には分からないが、きっと彼の興味を惹くに違いない。
古い型のボードゲームも見掛けた気がする。
彼はゲームが好きだとも言っていた。
喜んでくれるだろう。
無邪気な子供のように私の胸はわくわくした。
小さな悪戯を仕掛けて、人が引っ掛かるのを心待ちにしているときのような感覚。
私が……私が、遠い昔に置いて来てしまった、感情。
表情に出さないように一呼吸して、彼に話を持ち出した。
さり気なく、不自然にならないように。
「ああ……獏良くん、君は骨董品に興味があると言っていたが……もっと祖父のコレクションを見てみるかい?」
彼はスプーンを置いて、花開くように顔を綻ばせた。
「ええ、喜んで」
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主人が出すぎで、すみません。
バク獏の二人が仲が良いの伝わ…らないな(笑)。